制度についての議論において別のトピックは言語の問題であった。言語の論点において重要な問題は、言うまでもなく場合により必要となる翻訳にかかるコストであった。たったひとつの言語による手続きで、数か国で有効性の効果を得られるのは、このプロセスによってコストが削減できるために、明らかに出願人の利益にかなっていた。実際の政治的場面では、機関に参加する全ての国々の各国語を使用言語および公用語として、いくつかの欧州の団体が受け入れるといった言語の取決めの例もあった。そのため、課題は、翻訳コストを削減し、それだけでなく、将来の欧州特許出願人および特に世界的なプラットフォームでのこの特許庁の国際的活動に関して言語の障壁を作らずに、将来の特許庁の使用言語を最小限に制限することであった。当初はフランス語とドイツ語が主要言語となる必要があることが明らかとみなされていた。英語が国際的言語としてより一層最も話される言語となりつつある背景に加え、また世界中の出願人が容易にアクセスできるようにするために、英語も特許庁の公式使用言語に含める必要があることが次第に明白となった。さらなる追加の言語についても議論されたが、最終的に提案された言語パッケージは先の三言語に制限することとなった。

確かに、組織や特許庁の中枢の設置場所といった政治的重要性の高い問題も準備会議の間に明らかにする必要があった。これは単独で成り立つトピックではなかった。中枢の設置場所を決定するにあたり、特許庁の使用言語の問題は、ある程度、特許庁の所在に応じて利用可能な新規性調査用の資料に関するインフラ問題と同様に検討されなければならなかった。

最初から、欧州特許庁が設置される可能性の高い場所として、四都市すなわちハーグ、ミュンヘン、ニース、ロンドンが検討されていた。それらの都市は全てその利益について公式に述べていた。その候補の都市は提案された場所について、主に言語の問題に関連して議論を提起した。決定に際して時間を要したが、最終的には調査用資料の問題が主要な要因となった。会議開催の年には、何度もトピックが取り上げられたが、実際の進歩は非常にゆっくりしたものだった。ロンドンは大奮闘し、高まる英語の重要性と英語のネイティブスピーカーの職員採用の容易さについて主張した。ますます増加する英語での出願への期待と欧州でアクセスしやすい場所であるという交通の観点から、英国代表団の意見を考えるとロンドンが特許庁にとって最適な場所であった。しかしながら、他の代表団の過半数は多言語の特許庁を支持した。そして、統一特許の条約の起草に関して、EEC 内の都市のほうががより適切と思われた。これと並行して、このトピックに関して二つの競争都市 (ハーグおよびミュンヘン) の議論の中で、組織の公式の中枢場所をミュンヘンとし、さらに、IIBの経験と活動に依存して支部をハーグとするという提案とする新しいシナリオが作られた。この考えは、1972年6月の政府間会議期間中に最終的に採用された。

その政府間会議の期間中に全ての開示事項が明らかにされたわけではない。しかし、政府間会議の終わりから1973年に開催されたミュンヘン外交会議の間に、合意すべき解決策に備えるための十分な時間と機会が与えられた。

実際、欧州特許庁が特許の束を付与するという考えは、政治的観点からは、統一特許のアプローチと比較すれば容易なことは明らかであった。欧州特許条約が1973年に調印された一方で、統一特許の最初の草案は1973年にのみ作業部会により提出された。それから、最初の共同体特許条約 は1975年に採択された。