8.欧州特許制度およびその背景、歴史的発展と現状 8. ヨーロッパ特許制度とヨーロッパ特許庁について

欧州特許庁発足後の数年間の欧州特許制度および欧州特許庁のさらなる発展について続ける前に、本章では欧州特許条約 (EPC) における特許付与手続の概要、すなわち、欧州特許庁発足当時の状況および後の発展について述べる。

欧州特許付与手続全体の基礎となっているのは欧州特許条約である。この条約は、主に欧州各国内における特許法と実務を調和するものであり、非常に重要かつ現在も継続している特許付与手続の第一歩を定めている。同時に、この条約は、国際的レベルの調和の発展を間接的にもたらしている。

欧州特許制度は、各国特許の一元付与により、特許出願、先行技術調査および審査手続に関する一連の規則を提供する。この点において、1978年以前の状態と比較すると、欧州特許制度は管理面と同様に財政面における合理化についても大きな前進をした。さらに、2019年現在構想されている欧州単一特許は、確実に上記の管理面と財政面に影響を与えることが予想される。

この欧州特許制度は欧州における特許保護の従来の方法、すなわち各国特許庁への特許出願の代替案を示している。すなわち、1つの欧州出願をすることで、欧州特許条約の全加盟国において特許保護を受けることができる。そして、欧州特許庁に付与された特許は、指定締約国内においてもその国が付与した国内特許と同じ効力を享受することができる。

指定国内での特許保護を確保するために、特許出願人は加盟国の特許機関に対して例えば翻訳の提出や公開費用の支払いなどのいくつかの段階を踏む必要がある。 これらの必要条件は加盟国の各国の法律に従う。有効な特許保護を維持するために、出願日から計算して付与後3年目からそれ以降毎年、年金を支払う必要がある。

この付与手続において、欧州特許庁は一元的な特許付与機関であるが、特許付与後の全ての段階において、特に権利侵害の問題は各国機関にとどまったままであり、各加盟国内で個別に処理されなければならない。欧州付与手続は、統一した中央審査および付与手続が、必要な国内手続を経て出願人に指定された締約国で有効な国内特許の束へとつながるような成果をもたらした。

欧州特許出願は、欧州特許庁の公用語である英語、フランス語、ドイツ語のいずれかの言語で出願される。欧州特許庁発足当初は、出願人が明確に指定した締約国のみが権利保護のための指定国となったが、欧州特許条約の改正条約(EPC2000)が2007年12月13日に発効した後は、出願時に全締約国が指定されているものと法的に見なされるようになった。2019年現在は、欧州加盟国38か国が欧州特許条約に加盟している。また、2019年現在、拡張国(現在、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの2か国)と認証国(現在、モロッコ、モルドバ、チュニジア、カンボジアの非欧州国4か国)にさらに保護の権利を拡張することができ、出願人の請求及び所定の手数料の納付に基づいて欧州特許出願による保護がなされる。

締約国の居住者は、専門家に依頼することなく自身で出願が可能だが、締約国以外の居住者は、欧州特許庁の公式な代理人名簿から代理人を指名しなければならない。

欧州特許出願は、ミュンヘン、ハーグ、ベルリン、あるいは締約国が許可すれば、締約国の国内特許庁や他の機関に直接出願することができる。出願は書面で、電子的手段、持参、郵送またはFAXで手続しなければならない。特許付与における手続費用である出願料、先行技術調査手数料、超過クレームに対する手数料、各指定締約国に対する指定手数料、延長手数料、各締約国での権利の有効化費用(validation)、審査手数料、特許付与手数料および公告手数料、そして3年目とそれ以降の年金を異なる段階で支払う必要がある。なお、手続費用は、現在はユーロで支払われるが、以前は各加盟国の通貨での支払いも可能だった。

最初の段階では、出願の特許性および公開に関する方式審査、サーチレポートの準備、予備的見解が必要である。欧州特許庁は通常、出願後6か月以内にサーチレポートを提供することを目指している。出願は通常、出願日または最も早い優先日から18か月の期間満了後直ちに公開される。次の段階では、通常実体審査の後に特許付与が行われる。この手続きを開始するために、サーチレポートが欧州特許公報で告示されてから、どんなに遅くても6か月以内に出願人は審査請求をする必要がある。査定前は、技術的に資格のある審査官1名が審査を担当する。査定は、技術的に資格のある3名の審査官で構成される審査部門の合議体により行われる。

特許付与後、特許付与の告示から9か月以内に、特許権者自身を除いていかなる第三者も異議申立をすることができる。これらの手続は異議部に委ねられており、異議部を構成する3名のうち2名は先の審査手続に関与している必要は必ずしもない。

特許権の付与前後における欧州特許庁からの大抵の決定に対しては、権利の維持のため、タイムリーに法定費用を支払う必要がある。なお、欧州特許庁からの決定の状態に応じた猶予期間も適用可能である。

特許付与後に特許権者は取消または限定を行ってもよい。これは異議申立の手続中以外であれば、付与後いつでも申請できる。取消または限定に関する決定は審査部が下す。

欧州特許庁の受理課、審査部、異議部または法律部が下した決定に対しては、決定日から2か月以内に控訴を申し立てることができる。控訴に関する決定は審判部が責任を負い、審判部は第二審および最終審判の決定を下す。審判部は通常、2名の技術系と1名の法律系のメンバーから成り、いかなる指示も受けない。彼らが順守しなければならないのは欧州特許条約だけである。例外的な場合において、拡大審判部による再審理の請求が可能である。これは審判部の通知から2か月以内に行われなければならない。

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前章 20章:EPO運用開始の一年目ー成果

欧州特許庁発足から最初の10年間である1979年から1988年にかけては、欧州特許庁という新しい機関が十分に機能して世界中に受け入れられるための 地固めの年と見なされる。

この10年においても、高い技術力と言語力を有する有能な職員は依然必要であり、この欧州特許制度の成功を握る重要な要因だった。審査官庁としての責務を果たすために、有能な職員をできるだけ早く確保することが最優先事項だった。この時、採用の主なターゲットは各加盟国の国内特許庁の特許審査官と旧 IIB(国際特許協会)の職員だった。 IIBは1978年に欧州特許庁に統合されたのち、組織的な観点から1979年に先行技術調査に関与する欧州特許庁の総局1 (DG1)となった。実際、最初の4年間で実体審査業務の職員は各国特許庁および旧 IIB から独占的に確保された人材だった。

将来の審査官のためのトレーニングコースが欧州特許庁で開発・体系化された。審査目的の職員数は着実に増加して、1979年4月2日に実体審査官の第1期生が任命された。審査官の第2期生は1979年10月に任命されたので、欧州特許庁設立後のわずか2年の1979年末にはすでに約100名の実体審査官が勤務していた。1979年の2グループに続いて1980年にも2グループ、そして1981年、1982年に各1グループが誕生した。1982年には総計265名の審査官が勤務していた。人材確保の源としての各国特許庁の人材が尽きてきたので、1983年には各国特許庁を超えた外部からの人材確保が始まり、実体審査の経験が全くない、あるいは殆どない外部からの人材のためのトレーニング方法が必要だった。それにもかかわらず、欧州特許庁の努力は実を結び、1988年までには約600名の職員がミュンヘンの審査部門で勤務していた。

欧州特許制度が出願人に徐々に受け入れられるのに合わせて、人材確保もまた着実に継続した。1979年には、職員数は初めて1000人を超え、1986年にはすでに2000人の職員が欧州特許庁に勤務していた。1988年末には総計 2651 名の職員が欧州特許庁に、1171名がミュンヘン、1313名がハーグ、そして167名がベルリンに勤務していた。 彼らのうち、60% 以上が先行技術調査および審査部門に勤務していた。

新しい審査官に提供されたトレーニングプログラムの重要な要素は調和の実践だった。新しい審査官は様々な国の特許庁の出身だったので、審査手続に関する経歴や経験がしばしば全く異なり、進歩性判断に関する手法の理解も効率化させる必要があった。この目的のために、1979年にはすでに欧州特許庁に調整グループが設置された。このアプローチはイメージ作りに大変役立ち、実際に高品質の特許付与手続に基づく高品質の特許保護を提供する機関としての欧州特許庁の成功に貢献した。

1979年6月1日現在、欧州特許庁は実体審査業務を正式に開始した。実体審査可能な技術分野は、特許出願の受理開始後最初の6か月は51%に制限されたが(詳しくは18章を参照。)、6か月後には60%、それから80%、そして最終的には1979年11月までには全ての分野において審査可能となった。実体審査可能な技術分野の範囲は官報で公開され、数か月のうちに定期的に更新された。

最初の10年間の自動化への取り組みはEPASYS システムの開発に集中しており、それは欧州特許制度の利用増加に伴い徐々に効果的になるにつれて、特許付与手続の全段階をサポートすることができるものだった。1982年後半に第二のプロジェクトであるDATIMTEXの運用が開始し、出願から公開までの出願文書の電子的処理が可能になった。既に1979年には、技術開発で常に最先端を維持することを目標として電子データ処理 (EDP) 部門が設立されていた。同年、欧州特許庁は初めての欧州ネットワークであるEuronetを使用した最初の機関のひとつとなり、データベースへのアクセスを提供した。また初めてのPCは1984年に設置され、1990年にはほぼ全ての職員にPCが提供された。いわゆる“ペーパーレス・オフィス”を目的としたUSPTO(米国特許商標庁)およびJPO(日本国特許庁)のペーパーレス計画に刺激され、欧州特許庁もまた1980年代には、USPTOやJPOとまではいかなくとも同様の目標に向かって“ペーパーレス”戦略を展開した。

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次章 23章:EPOの最初の10年間(第二部)

前章 21章:欧州特許付手続

欧州特許条約(EPC)第163(1) 条の経過規定により、欧州特許庁開設後の移行期間中、締約国の各国特許庁から認定された弁理士は、欧州弁理士試験に合格しなくても欧州特許庁に関する代理人資格を自動的に取得することができた(詳細は19章参照)。しかし、1980年に欧州弁理士試験の制度が開始され、1981年以降も引き続き実施されるとともに、この移行期間は1981年10月7日に終了した(EPCの当該経過規定は役目が終わり、EPC の本文から削除された)。この日から欧州特許庁の代理人のリストに登録されるためには欧州弁理士試験に合格することが必須となった。

1979年にオーストリアが欧州特許条約を批准して10番目の加盟国となった。1980年にはリヒテンシュタインが、そして1986年にはスペインとギリシャが条約に批准した。その結果、1988年末までに合計で13か国が欧州特許制度の加盟国となった。

協調に関してのみならず政治的に見ても、欧州特許庁はこの最初の10年間にいくつかの取組に参加、あるいは取組を開始した。その取組は、国際的な立場および自己理解、そして特許業界における欧州特許庁の役割に長期的な影響を与えた。既に初期段階において、PCT手続に関する緊密な協力関係をWIPOと合意していた。後にこのことは欧州特許庁の全体的な作業量においてますます重要な部分になっていった。

1980年初頭、三極特許庁協力が誕生した。アジアとアメリカ大陸の二つの主要な特許庁、すなわち日本国特許庁(JPO)及び米国特許商標庁(USPTO)と、欧州特許庁との協力である。
JPO及びUSPTOからの取組が 、作業の効率化と重複の回避を目的として、作業内容と作業結果の全体的な調和に向けて議論されたとき、欧州特許庁は欧州特許制度の加盟10か国の代表を務めていたが、その機会を利用してこれら議論のメンバーとなった。三極特許庁協力は、時間とコストの削減だけでなく、使いやすさの改善に向けた協力であった。これは、非常に実りがあり、かつ、長年にわたる協力となった。

そして、全ての国において、特許分野における文献だけでなく、一般の人々が文献により幅広くアクセスをする必要があるとの認識も高めることになった。こうした背景を踏まえて、欧州特許庁は内部でもこのテーマに関して議論を開始し、数年後の1988年には、欧州特許庁を監督する管理理事会において特許情報の政策文書を採択に至った。これはその後の数十年間、欧州特許庁のこの分野におけるさらなる関与の拡大と、画期的な技術や政治的発展においての基礎となった。

ようやく中国も1980年代初期に新知的財産法の実施を検討し、法律と慣行を学ぶために欧州特許庁を訪問した。欧州特許庁と中国とが非常に有意義な連携を行う第一歩となった。

欧州特許庁は欧州共同体(後の欧州連合)の組織ではないが、初期の段階からすでに欧州委員会と定期的に連絡を取り、交流をはかっていた。当初から、欧州委員会と欧州特許庁の間にはどのような関係があるのか、多くの一般の人々には不透明であった(おそらくそれは現在でも言えることであるのだが)。この側面の明確化に貢献するために、また良好な関係を示す目的で、欧州委員会は1984年にミュンヘンの欧州特許庁の施設内に報道と情報の事務所を開設した。欧州特許庁の観点から、これは、欧州単一特許(この時すでに何年も議論されていたが、まとまることはなく実施されなかったテーマ)に向けた努力を推進する別の要因となった。のちに、欧州特許庁は欧州委員会との関係を円滑にするためブリュッセルに連絡事務所も開設した。

そして、欧州特許庁の運営において上層部で大きな変化が起こった。欧州特許庁の初代長官 Johannes Bob van Benthem氏が7年以上におよぶトップの後に引退し、スイス出身の Paul Brändli氏が後任となった。彼は1985年5月1日付けで正式に業務を開始し、10年以上にわたり欧州特許庁のトップの地位を引き継いだ。

欧州特許庁の成功とますます増加する職員により、オフィススペースが不足した。1983年、外部の利用者に貸し出していた欧州特許庁の施設の一部が明け渡され、すぐに欧州特許庁の職員が利用した。増え続ける職員のため、欧州特許庁はさらなるスペースを探さなければならなかった。1987年には ミュンヘンのNeuperlach 施設がさらに賃借され、1988年以降はさらに必要なスペースの準備や計画がミュンヘンおよびハーグで開始された。ハーグではLeidschendam 計画(これは結局実現しなかった)、そしてミュンヘンでは Pschorrhöfe計画が始動し、後にミュンヘンで二番目に主要な欧州特許庁の施設となった。

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次章 25章:早い時期におけるEPOの特許情報

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1977年の欧州特許庁の発足以来、欧州特許庁は着実に成長し、加盟国からの財政支援の必要性は急激に低下した。1973年のミュンヘン外交会議(詳しくは8章参照)では、加盟国からの財政支援は少なくとも10年は必要だろうと見込まれていた。しかし実際には、欧州特許庁設立のわずか4年後の1981年にはすでに自立しており、支援を受けていた国々に対し、1981年末までには支援金の全てを利子と共に返済した。また、1978年は約1億ドイツマルクであった欧州特許庁の運営予算は、1988年には約5億8000万ドイツマルクに増加していた。

加盟国からの財政支援に頼らず自立したこの状態を維持するためには、今後の出願件数の動向についての現実的な評価および綿密な見積もりに基づく詳細な予算編成が必要だった。これに伴い、特許付与手続の料金が1981年に初めて引き上げられ、1985年には再び引き上げられた。
そして1985年以降、欧州特許庁を監督する管理理事会の決定が、欧州特許庁に財政的な影響を強く与えた。1985年までは、出願人が加盟国の特許庁に支払った年金(更新料)の60%を欧州特許庁が受け取っていたが、1985年の管理理事会の決定により60%から50%に引き下げられた。

欧州特許庁運用当初から、欧州特許庁の普及活動への政治的支援や、欧州特許制度への政治的支援が行われた。その政治的支援が期待以上の結果につながったことは、欧州特許庁が受理した特許出願件数の増加をみれば明らかであった。

●欧州特許庁の運用開始から2年後(1979年)
約12,700件
※約70%が欧州特許制度加盟国から、約25%がアメリカ合衆国から、約5%が日本から
●欧州特許庁の運用開始から6年後(1983年)
約30,800 件
※約27% はアメリカ合衆国から、約14%は日本から
※出願件数は、事前見積りの年間最大30,000件を突破
●欧州特許庁の運用開始から11年後(1988年)
約52,300件
※約52%が欧州特許制度加盟国(この時点で13か国まで増加)から、 約26%がアメリカ合衆国から、約17%が日本から
※出願件数は、事前見積もりの年間最大件数の175%に到達

欧州特許庁の年間統計によると、1980年から1988年は毎年平均して出願件数が12%増加している。

業務量が一番の懸念であった。1984年に欧州特許庁は約52,000件の先行技術調査を実施し、そのうちの約26,000件が欧州特許付与手続およびPCT手続に直接関与し、他の約26,000件は各国特許庁および第三者の先行技術調査として実施された。この年初めて、欧州手続のために実施した先行技術調査と、第三者または外部の特許庁のために実施した先行技術調査の件数が同数となった。その後何年もの間、欧州手続のために実施した先行技術調査の割合は増加し続けた。

先行技術調査目的で欧州特許庁が利用できる文献は、1978年の1400万文献から1988年の約2100万文献と、最初の10年間で約50%増加し、そのなかには170万の非特許文献も含まれていた。

1988年末までの間に合計約30万件の特許が出願され、10万件を上回る特許が付与された。

1983年にはすでに、出願言語の分布は事前に予測した割合に移行しており、全体の約57% が英語、約30% がドイツ語、約11% がフランス語で出願された。

1980年、ミュンヘンオフィスの業務空間が改善された。1978年から仮本部であるMotoramaビルに勤務する職員は、1980年春に新設された欧州特許庁の新本部であるIsarビルに段階的に移動した。正式にはこのオフィスは1980年9月29日に開設したが、この時点ではまだ建設段階であったので、施設の一部を第三者に一時的に貸し出していた。
 
加盟国の実体特許法の調和のとれたアプローチをさらに継続するために、欧州特許庁審判官の初めての会議が1982年にミュンヘンで開催された。このような会議はその後も定期的に継続された。

 

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調査機関としての国際特許協会(IIB)との統合により、欧州特許庁は早い時期から特許文献と非特許文献の膨大なデータにアクセスすることができた。収集は順調に進み、1978年には1400万件だった文献数は1988年末には2100万件を超える数に到達した。

1977年の欧州特許庁運用開始から最初の5年間は、欧州特許庁は特許付与機関としての機能を確保することに集中した。収集データは主に内部向けのツールとして活用し、外部からの利用はある程度の大企業のみに限定した。現在、一般向けに公開している特許文献の情報ツールとしての利用は、1980年代当初はまだ行われていなかった。

しかし、特許情報のサービス事業者になりうる欧州特許庁の積極的な関与について、検討を深める時期が来ていた。

1982年、特許文献の印刷コストの上昇に伴い、公報文献のデジタル化 が検討された。この時、印刷データの約3分の2は他の特許庁との交換用、3分の1は一般向けの販売用データであった。このような状況のもと、印刷データのデジタル化はコストを削減し、また特許情報データへの幅広いアクセスのためのツール開発の第一歩となった。またこれを機に、今後は電子形式での特許出願が可能になるだろうと分析された。

1982年にはまた、欧州特許庁の監督機関である管理理事会において作業部会が設立され、欧州特許庁の電子化された文献情報についての今後の普及に関するシナリオが作成された。その後の数年間で、各国特許庁と欧州特許庁との間で情報の普及に関する役割分担が明確に定められ、 特許文献からの技術情報の普及は各国特許庁の責任下にあると合意された。作業部会は欧州特許庁の内部情報システム、特に特許ファミリーシステムへの一般からのアクセスを許可するべきか、またどのように権限を与えるべきかを検討した。これらの進展により、1982年に欧州特許庁と米国特許商標庁(USPTO)との間において、ノウハウの共有を強化し、不必要な重複作業を回避することにより業務効率を高めることを目的に、新しい記録媒体のデータ交換を強化することに合意した。

1983年、管理理事会の作業部会の努力の結果、欧州特許庁の情報普及政策のより広い解釈への道を開いた。その判断により、欧州特許庁の3つの内部情報システム“ファミリー(FAMI)、インベントリー(INVE)、分類(ECLA)システム”に、一般からのオンラインによるアクセスが可能となった。これらシステムの各国ホストへの分配(国内ホストの決定については各国特許庁の責任であった)は、その後INPADOC(ウィーンにある国際特許情報センター)に委ねられることになる(INPADOC及びINPADOCと欧州特許庁との関係については後の章に記載)。その後、同年にINPADOCと欧州特許庁間との関係についての協定案、いわゆるヨーロッパ協定も採択され、1984年4月1日に発効された。この直後、INPADOCはフランス特許庁(INPI)と、フランスの企業Télésystèmes に公開データのホストとしてこれらを提供する契約を締結した。さらに二庁間協定に基づき、各国特許庁は欧州特許庁のコンピューターシステムに初めて直接にアクセスし、これらの欧州特許庁内のデータベースを利用できるようになった。

特許情報普及の問題に影響を及ぼすもう一つの要因は、EPO、USPTO、JPOの三極特許庁協力の枠組みにおける議論だった。この協力は1983年に始まり、特許情報普及政策の協調についての課題は、初期段階に既に主な議題の中に含まれていた。1984年には参加特許庁のみならず、情報公開のために各国特許資料館にも交換データが利用できるように合意された。これに関連して1985年には、コンパクトディスク(ROM)の活用は、低価格の利点も備えた情報普及に有望なツールと見なされた。

欧州特許庁は、デジタル化の増加と三極特許庁協力における議論を背景に、変化する情報環境での経験に基づいて、1986年5月に「電子時代における特許情報」をトピックとしたシンポジウムを開催した。このシンポジウムでは特許情報に対する高まる要求が確認されただけでなく、公共に提供される特許情報は、専門家によって事前に改善・評価される必要があることが明らかになった。この時点では主に各国特許庁、公共資料館、及び市場情報提供者のための幅広い活動領域として解釈された。

欧州特許庁内部および三極特許庁間においても、今後の特許情報普及政策の継続的な国際レベルでの議論により、最終的には欧州特許庁が情報普及においてより積極的な役割を果たすだろうという結論に至った。欧州特許庁は、今後のさらなる活動の基礎となる欧州特許情報政策を実施する決定を下した。この背景を踏まえて、欧州特許庁はINPADOCとの統合に向けた検討も深めていった。

 

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