1977年の欧州特許庁の発足以来、欧州特許庁は着実に成長し、加盟国からの財政支援の必要性は急激に低下した。1973年のミュンヘン外交会議(詳しくは8章参照)では、加盟国からの財政支援は少なくとも10年は必要だろうと見込まれていた。しかし実際には、欧州特許庁設立のわずか4年後の1981年にはすでに自立しており、支援を受けていた国々に対し、1981年末までには支援金の全てを利子と共に返済した。また、1978年は約1億ドイツマルクであった欧州特許庁の運営予算は、1988年には約5億8000万ドイツマルクに増加していた。

加盟国からの財政支援に頼らず自立したこの状態を維持するためには、今後の出願件数の動向についての現実的な評価および綿密な見積もりに基づく詳細な予算編成が必要だった。これに伴い、特許付与手続の料金が1981年に初めて引き上げられ、1985年には再び引き上げられた。
そして1985年以降、欧州特許庁を監督する管理理事会の決定が、欧州特許庁に財政的な影響を強く与えた。1985年までは、出願人が加盟国の特許庁に支払った年金(更新料)の60%を欧州特許庁が受け取っていたが、1985年の管理理事会の決定により60%から50%に引き下げられた。

欧州特許庁運用当初から、欧州特許庁の普及活動への政治的支援や、欧州特許制度への政治的支援が行われた。その政治的支援が期待以上の結果につながったことは、欧州特許庁が受理した特許出願件数の増加をみれば明らかであった。

●欧州特許庁の運用開始から2年後(1979年)
約12,700件
※約70%が欧州特許制度加盟国から、約25%がアメリカ合衆国から、約5%が日本から
●欧州特許庁の運用開始から6年後(1983年)
約30,800 件
※約27% はアメリカ合衆国から、約14%は日本から
※出願件数は、事前見積りの年間最大30,000件を突破
●欧州特許庁の運用開始から11年後(1988年)
約52,300件
※約52%が欧州特許制度加盟国(この時点で13か国まで増加)から、 約26%がアメリカ合衆国から、約17%が日本から
※出願件数は、事前見積もりの年間最大件数の175%に到達

欧州特許庁の年間統計によると、1980年から1988年は毎年平均して出願件数が12%増加している。

業務量が一番の懸念であった。1984年に欧州特許庁は約52,000件の先行技術調査を実施し、そのうちの約26,000件が欧州特許付与手続およびPCT手続に直接関与し、他の約26,000件は各国特許庁および第三者の先行技術調査として実施された。この年初めて、欧州手続のために実施した先行技術調査と、第三者または外部の特許庁のために実施した先行技術調査の件数が同数となった。その後何年もの間、欧州手続のために実施した先行技術調査の割合は増加し続けた。

先行技術調査目的で欧州特許庁が利用できる文献は、1978年の1400万文献から1988年の約2100万文献と、最初の10年間で約50%増加し、そのなかには170万の非特許文献も含まれていた。

1988年末までの間に合計約30万件の特許が出願され、10万件を上回る特許が付与された。

1983年にはすでに、出願言語の分布は事前に予測した割合に移行しており、全体の約57% が英語、約30% がドイツ語、約11% がフランス語で出願された。

1980年、ミュンヘンオフィスの業務空間が改善された。1978年から仮本部であるMotoramaビルに勤務する職員は、1980年春に新設された欧州特許庁の新本部であるIsarビルに段階的に移動した。正式にはこのオフィスは1980年9月29日に開設したが、この時点ではまだ建設段階であったので、施設の一部を第三者に一時的に貸し出していた。
 
加盟国の実体特許法の調和のとれたアプローチをさらに継続するために、欧州特許庁審判官の初めての会議が1982年にミュンヘンで開催された。このような会議はその後も定期的に継続された。

 

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