欧州特許庁発足から最初の10年間である1979年から1988年にかけては、欧州特許庁という新しい機関が十分に機能して世界中に受け入れられるための 地固めの年と見なされる。

この10年においても、高い技術力と言語力を有する有能な職員は依然必要であり、この欧州特許制度の成功を握る重要な要因だった。審査官庁としての責務を果たすために、有能な職員をできるだけ早く確保することが最優先事項だった。この時、採用の主なターゲットは各加盟国の国内特許庁の特許審査官と旧 IIB(国際特許協会)の職員だった。 IIBは1978年に欧州特許庁に統合されたのち、組織的な観点から1979年に先行技術調査に関与する欧州特許庁の総局1 (DG1)となった。実際、最初の4年間で実体審査業務の職員は各国特許庁および旧 IIB から独占的に確保された人材だった。

将来の審査官のためのトレーニングコースが欧州特許庁で開発・体系化された。審査目的の職員数は着実に増加して、1979年4月2日に実体審査官の第1期生が任命された。審査官の第2期生は1979年10月に任命されたので、欧州特許庁設立後のわずか2年の1979年末にはすでに約100名の実体審査官が勤務していた。1979年の2グループに続いて1980年にも2グループ、そして1981年、1982年に各1グループが誕生した。1982年には総計265名の審査官が勤務していた。人材確保の源としての各国特許庁の人材が尽きてきたので、1983年には各国特許庁を超えた外部からの人材確保が始まり、実体審査の経験が全くない、あるいは殆どない外部からの人材のためのトレーニング方法が必要だった。それにもかかわらず、欧州特許庁の努力は実を結び、1988年までには約600名の職員がミュンヘンの審査部門で勤務していた。

欧州特許制度が出願人に徐々に受け入れられるのに合わせて、人材確保もまた着実に継続した。1979年には、職員数は初めて1000人を超え、1986年にはすでに2000人の職員が欧州特許庁に勤務していた。1988年末には総計 2651 名の職員が欧州特許庁に、1171名がミュンヘン、1313名がハーグ、そして167名がベルリンに勤務していた。 彼らのうち、60% 以上が先行技術調査および審査部門に勤務していた。

新しい審査官に提供されたトレーニングプログラムの重要な要素は調和の実践だった。新しい審査官は様々な国の特許庁の出身だったので、審査手続に関する経歴や経験がしばしば全く異なり、進歩性判断に関する手法の理解も効率化させる必要があった。この目的のために、1979年にはすでに欧州特許庁に調整グループが設置された。このアプローチはイメージ作りに大変役立ち、実際に高品質の特許付与手続に基づく高品質の特許保護を提供する機関としての欧州特許庁の成功に貢献した。

1979年6月1日現在、欧州特許庁は実体審査業務を正式に開始した。実体審査可能な技術分野は、特許出願の受理開始後最初の6か月は51%に制限されたが(詳しくは18章を参照。)、6か月後には60%、それから80%、そして最終的には1979年11月までには全ての分野において審査可能となった。実体審査可能な技術分野の範囲は官報で公開され、数か月のうちに定期的に更新された。

最初の10年間の自動化への取り組みはEPASYS システムの開発に集中しており、それは欧州特許制度の利用増加に伴い徐々に効果的になるにつれて、特許付与手続の全段階をサポートすることができるものだった。1982年後半に第二のプロジェクトであるDATIMTEXの運用が開始し、出願から公開までの出願文書の電子的処理が可能になった。既に1979年には、技術開発で常に最先端を維持することを目標として電子データ処理 (EDP) 部門が設立されていた。同年、欧州特許庁は初めての欧州ネットワークであるEuronetを使用した最初の機関のひとつとなり、データベースへのアクセスを提供した。また初めてのPCは1984年に設置され、1990年にはほぼ全ての職員にPCが提供された。いわゆる“ペーパーレス・オフィス”を目的としたUSPTO(米国特許商標庁)およびJPO(日本国特許庁)のペーパーレス計画に刺激され、欧州特許庁もまた1980年代には、USPTOやJPOとまではいかなくとも同様の目標に向かって“ペーパーレス”戦略を展開した。

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前章 21章:欧州特許付手続