欧州特許条約(EPC)第163(1) 条の経過規定により、欧州特許庁開設後の移行期間中、締約国の各国特許庁から認定された弁理士は、欧州弁理士試験に合格しなくても欧州特許庁に関する代理人資格を自動的に取得することができた(詳細は19章参照)。しかし、1980年に欧州弁理士試験の制度が開始され、1981年以降も引き続き実施されるとともに、この移行期間は1981年10月7日に終了した(EPCの当該経過規定は役目が終わり、EPC の本文から削除された)。この日から欧州特許庁の代理人のリストに登録されるためには欧州弁理士試験に合格することが必須となった。

1979年にオーストリアが欧州特許条約を批准して10番目の加盟国となった。1980年にはリヒテンシュタインが、そして1986年にはスペインとギリシャが条約に批准した。その結果、1988年末までに合計で13か国が欧州特許制度の加盟国となった。

協調に関してのみならず政治的に見ても、欧州特許庁はこの最初の10年間にいくつかの取組に参加、あるいは取組を開始した。その取組は、国際的な立場および自己理解、そして特許業界における欧州特許庁の役割に長期的な影響を与えた。既に初期段階において、PCT手続に関する緊密な協力関係をWIPOと合意していた。後にこのことは欧州特許庁の全体的な作業量においてますます重要な部分になっていった。

1980年初頭、三極特許庁協力が誕生した。アジアとアメリカ大陸の二つの主要な特許庁、すなわち日本国特許庁(JPO)及び米国特許商標庁(USPTO)と、欧州特許庁との協力である。
JPO及びUSPTOからの取組が 、作業の効率化と重複の回避を目的として、作業内容と作業結果の全体的な調和に向けて議論されたとき、欧州特許庁は欧州特許制度の加盟10か国の代表を務めていたが、その機会を利用してこれら議論のメンバーとなった。三極特許庁協力は、時間とコストの削減だけでなく、使いやすさの改善に向けた協力であった。これは、非常に実りがあり、かつ、長年にわたる協力となった。

そして、全ての国において、特許分野における文献だけでなく、一般の人々が文献により幅広くアクセスをする必要があるとの認識も高めることになった。こうした背景を踏まえて、欧州特許庁は内部でもこのテーマに関して議論を開始し、数年後の1988年には、欧州特許庁を監督する管理理事会において特許情報の政策文書を採択に至った。これはその後の数十年間、欧州特許庁のこの分野におけるさらなる関与の拡大と、画期的な技術や政治的発展においての基礎となった。

ようやく中国も1980年代初期に新知的財産法の実施を検討し、法律と慣行を学ぶために欧州特許庁を訪問した。欧州特許庁と中国とが非常に有意義な連携を行う第一歩となった。

欧州特許庁は欧州共同体(後の欧州連合)の組織ではないが、初期の段階からすでに欧州委員会と定期的に連絡を取り、交流をはかっていた。当初から、欧州委員会と欧州特許庁の間にはどのような関係があるのか、多くの一般の人々には不透明であった(おそらくそれは現在でも言えることであるのだが)。この側面の明確化に貢献するために、また良好な関係を示す目的で、欧州委員会は1984年にミュンヘンの欧州特許庁の施設内に報道と情報の事務所を開設した。欧州特許庁の観点から、これは、欧州単一特許(この時すでに何年も議論されていたが、まとまることはなく実施されなかったテーマ)に向けた努力を推進する別の要因となった。のちに、欧州特許庁は欧州委員会との関係を円滑にするためブリュッセルに連絡事務所も開設した。

そして、欧州特許庁の運営において上層部で大きな変化が起こった。欧州特許庁の初代長官 Johannes Bob van Benthem氏が7年以上におよぶトップの後に引退し、スイス出身の Paul Brändli氏が後任となった。彼は1985年5月1日付けで正式に業務を開始し、10年以上にわたり欧州特許庁のトップの地位を引き継いだ。

欧州特許庁の成功とますます増加する職員により、オフィススペースが不足した。1983年、外部の利用者に貸し出していた欧州特許庁の施設の一部が明け渡され、すぐに欧州特許庁の職員が利用した。増え続ける職員のため、欧州特許庁はさらなるスペースを探さなければならなかった。1987年には ミュンヘンのNeuperlach 施設がさらに賃借され、1988年以降はさらに必要なスペースの準備や計画がミュンヘンおよびハーグで開始された。ハーグではLeidschendam 計画(これは結局実現しなかった)、そしてミュンヘンでは Pschorrhöfe計画が始動し、後にミュンヘンで二番目に主要な欧州特許庁の施設となった。

目次

前章 23章:EPOの最初の10年間(第二部)