欧州特許制度に向けたもう一つの重要な一歩は、1949年のフランス上院議員Longchambon 氏の提案により築かれた。彼は欧州評議会 (ロンドン条約に基づき1949年に設立) に対し、欧州特許庁設立のアイデアを推進した。
このアイデアは初期段階では合意に至ることはなかったが、アイデア自体はその後数十年間のさらなる議論や発展の具体的な基礎となった。このアイデアは、専門家委員会にこのトピックの対処を委任した閣僚委員会 により取り上げられた。各国特許庁の代表からなる委員会のメンバーは、1951年初期にその業務を開始した。委員会の業務の成果としては、特に先行技術調査の必要性について、原則として全ての参加国に合意の意見や提案を得た。1953年には、特許出願 手続きの調和に関する最初の条約が最終合意に達し、1954年には、国際特許分類に関するさらなる条約が成立した。その後何年間も、詳細に関し様々な提案が議論されたが、議論している当事者にとって相互に好ましいアプローチに至ることはますます困難となった。原則として、二つの主要な立場が突き詰めて展開された。一方は 欧州国家間では国家レベルの特許を相互に認めるというもので、産業財産権の紛争解決をする司法裁判所にさえ支持されていた。もう一方の提案は、長期的に見た場合に国際特許協会(IIB)が、特許手続きを行う将来の欧州特許庁へと移行するであろうと予見するものだった。両提案は最終的には議論している当事者から十分な支持を得ることができなかったが、そのような議論やその結果は欧州特許制度のさらなる進展にとって重要な必要条件であり実態調査活動となった。
1950年のほぼ同時期に、北欧諸国でも、特許出願が指定国内で有効な国内特許の束へとつながるような 制度を創設する目的で、参加国のそれぞれの特許法を調和させる構想があった。最終的に、 このアプローチでは制度の実現への道筋を見いだせなかった。
1957年調印のローマ条約により、欧州各国間でのより緊密な協力関係に向け、欧州の政治的展望が変化した。欧州経済共同体 (EEC) が設立され、これは後の欧州連合(EU)設立に向けた重要な一歩となった。当初は、協定は6加盟国(以後、“the original six”として知られる、ベルギー、フランス、ドイツ、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ)により締結され、その後の数十年間は、ますます多くの国家がEUの一部としてグループに加わり、現行の28加盟国へと拡大した。
これは加盟国間の共同市場および関税同盟を作り上げることになり、統一ヨーロッパへ向けての重要な一歩となった。これにより、加盟国家間での物、資本およびサービスの移動が自由になり、また人々も制約を受けずに国家間を自由に移動できるようになった。これは、EEC内での貿易、産業および製造を加盟国間での物、労働、サービスおよび資本の単一市場に変換することによりもたらされた。明らかにこの新しい動きの一部は特許制度の将来の状況を示すものであった。その結果として、共通欧州特許制度のプロジェクトは新たなエネルギーに満ちていた。 委員会は、この時点における既存の産業財産権法の領土的見地に基づく地位を、物の移動の自由に反する深刻な障害とみなしていた。
1959年秋の時点で、特許、商標および意匠に関するEEC作業部会の傘下で、既存の産業財産権法間の違いにより生ずる貿易障壁を取り除く試みが開始された。当時、この部会の6加盟国は欧州石炭鉄鋼共同体と欧州原子力共同体の代表であった。この部会での議論は、欧州における将来の特許制度に関して二つの基本的な考えが堂々巡りした。すなわち、最終的に付与手続きの結果として、国内特許の束へとつながる特許制度を創設するという考えと、別の方法として、制度に参加する全ての国で有効な単一特許を創設するという考えであった。
特許作業部会での最初の議論の結果、欧州において各国の特許法を調和させることが、そのような制度に向けた重要な要素であることが明らかとなった。理想的な状況下では、欧州で独立した中央機関が国内法とは独立して参加国内で有効な特許を付与できる特許制度の創設が望ましい。また、この制度は国内特許と両立すべきである。
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