5章: 政府間会議
この提案に対して、政治的側面からの関心および反応もまた非常に前向きであった。欧州共同体理事会は、1969年初期に、 (設立予定の) 国際的な特許庁が欧州特許の発効につながる欧州の-非加盟国と対等の立場で-特許付与制度の協定文書を作成するために、政府間会議(のちにルクセンブルク政府間会議として知られる)に向けて道を開いた。ひとたびこの国際的な特許庁に特許が付与されると、その特許は締約国内で国内特許の効果を持つことになる。これは、特許の束という解決策に関する詳細な提案書に基づいて作業が実施されることを意味する。一旦、草案文書に関する合意が参加国の代表者から得られれば、このトピックに関する将来の外交会議の枠組みの中で最終的に署名する前にその文書を可決するために、その文書は各国機関に送付される。
理事会は EEC 加盟6か国に加えて、さらに、このような制度の発展に対して直接的または間接的に関心を示していた欧州の14か国の代表者もこの会議に招待した。当初の招待国の全てが参加したわけではないが、最終的に欧州の21か国が代表を務めた。多くの参加国がある程度異なる立場と関心であったため、決定過程はより複雑化する可能性があったが、会議へのこの広範な参加は文書の起草の堅固な基礎となった。
しかし、将来の欧州特許制度に向けた最終段階は、この政府間会議の要請だけではなかった。この決定と並行して、共同市場全域で統一された方法により欧州特許の効果を規制する目的で、欧州共同体の加盟国間で協定の草案を準備するために、理事会は統一特許に関する作業部会も立ち上げた。この協定についての最終決定は、加盟国により将来なされることになる。
最初のイニシアチブが会議後10年以内に提案された成果へつながった一方で、二番目の提案は、欧州ではむしろ時間のかかる工程であり-その実施は近い将来にかなり現実的なものになると思われたのだが-、約半世紀もかかった。しかし、統一特許 (最近では欧州単一特許として挙げられる) が実施されれば、そのうちに1960年代のアプローチと比較してより広範な地理的範囲の有効性をカバーするだろう。
1969年5月に政府間会議はその作業を開始した。1969年5月21日 (最初の会議の開始) から1972年6月30日 (六回目および最後の会議の終わり) の間に、特許付与のための欧州特許制度に関する協定の草案文面がまとまった。この会議の規模は、準備段階にとられた活動と比較すると全く異なるものだった。当時、 特許専門家のフォーラムのみならず、産業・民間部門からの参加者もまた、参加国の政治的代表者の声明と共に情報を提供していた。多様な国家的見解と目標を一つの傘下に収めるという困難な試みにおいて、明らかに、これらの声明は国益を反映したものであった。
協定の起草に向けて全ての異なるトピックを効果的に扱うために、協定の枠組みにおいて四つの作業部会と一つの調整委員会が設置された。Dr. Kurt Haertel が議長を務める作業部会 I は主要テーマ、すなわち規則、付与手続きおよび集中化の議定書(Protocol of Centralisation)を扱った。1963年から1975年までドイツ特許庁の長官を務めた Dr. Haertel は欧州特許制度の発展における主要人物のひとりであった。当時、会議中に詳細に議論されていた、この解決策に関する最初の提案は、1959年から数年間にEEC により設立された作業部会の任務のなかで、Dr. Haertel によりすでに系統立てて説明されていた。彼は、1950年代後半からその後数十年間における欧州特許制度のあらゆる議論において、主要な立役者のひとりであった。
Francois Savignon (1960年代後半のフランス特許庁長官) および Dr. Johannes Bob van Benthem (欧州特許庁の初代長官) と共に、欧州特許制度の創設の父として、この三人がよく引き合いに出される。この三人は異なる視点と独自の経歴で欧州特許制度に対する明確なビジョンを持って役割を果たし、ルクセンブルク政府間協議、および後のミュンヘン外交会議の成功に本質的に貢献した。
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