1973年のミュンヘン外交会議での欧州特許条約の調印は、欧州特許制度に向けた長期にわたる政治的努力の賜物であった。様々な代表団が会議の結果への満足感を表明した。産業財産権に関して歴史的な出来事と見なされ、またワシントン合意とともに特許分野における20世紀の第二次革命と見なされた。そこで生じた期待は、暫定委員会の業務が、会議期間中に代表団により示された協調という同じ志で続いて、その結果として合意後7、8年で最初の欧州特許を登録するというものだった。
1977年10月7日に欧州特許条約は発効した。ミュンヘン外交会議の終わりから1977年10月まで、暫定委員会は、欧州特許庁ができるだけ早く実務を開始できるように、その準備作業に関する巨大なプログラムを規定し、完成させなければならなかった。1977年の夏までに、暫定委員会はその業務を完了した。その結果、1977年10月19~21日の管理理事会の創立総会を経て、1977年11月1日に欧州特許庁が設立した。欧州特許庁の業務基盤を確定させるため、ミュンヘン外交会議期間中に合意した法律文書の草案が管理理事会により正式に採用された。
1977年10月19~21の管理理事会の設立総会では、欧州特許庁が業務を開始するために13の規則と12の国際協定が採用されなければならなかった。ミュンヘンの現地での必要な職員採用およびIIBの統合準備のため、予算の決定が必要だった。約700名のIIB(国際特許協会)職員と110名のミュンヘン事務所の職員の統合に必要な資金を、欧州特許庁の運用の順調な開始のために割り当てる必要があった。管理理事会は、オランダ特許庁の長官である Johannes Bob van Benthem 氏を欧州特許庁の初代長官に任命した。さらに、5名の総局の副長官も、この設立総会で任命された。
1978年1月1日時点で、IIB(国際特許協会)は統合され、直ちに700名以上の職員が先行技術調査活動のために導入され、これにより建物と必要なインフラを整えてハーグに欧州特許庁の支部を創設した。それから、1978年6月1日の(西)ベルリン支部の設立により、欧州特許庁の当初の先行技術調査能力は増加していった。ベルリン支部は、48名の特許審査官を含む101名の職員で業務を開始した(職員のほぼ全員がドイツ特許庁のベルリン支部出身だった)。その設立は、財政支援を行ったドイツにとって、冷戦により分裂した都市の政治的シンボルとして、特に重要だった。
ハーグとベルリンの両支部では、初めは、特許付与手続き、すなわち正式の出願の審査、先行技術調査および公開の最初の段階を扱った。活動の初年度には、この種の業務の準備と職員の教育は終了しなかったが、ミュンヘン支部が特許出願の第二の段階、すなわち特に新規性と進歩性に関する実質的審査に責任を負うことになった。さらに、登録された欧州特許についての将来の異議申立ておよび審判もミュンヘン支部で扱われた。
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