ICIREPAT(特許庁間の情報検索に関する国際協力のためのパリ同盟委員会)の傘下において、さらに一連の指導力の発揮が開始された。ICIREPATは1962年にいくつかの特許庁によって設立された機関である。提出される特許出願や、特許付与手続に関する調査や審査はますます増加し、また複雑化していたので、設立当初の既存の分類ツールでは十分に対処することができなかった。

設立当初は、国際事務局(BIRPI)がICIREPATのオブザーバーとしての役割を果たしていたが、1967年にICIREPATがパリ同盟の傘下に移動してからはBIRPI により運営されるようになった。ICIREPATは、特許文献の最初のページに記載されている書誌データの最も重要な要素を識別するための特許文献の資料、国コード、INID コード(書誌的事項の識別番号)など一連の情報の標準化や調和のテーマに取り組むと同時に、コンピューターを使用した知的財産関連文献へ効率的にアクセスするための研究も行った。

1900年12月14日にブリュッセル、1911年6月2日にワシントン、1925年11月6日にハーグ、そして1934年6月2日にロンドンに於いてパリ条約は改正された。第2次世界大戦後から1970年代初期までの間に、一連の準備会議や作業部会の会議など、様々な会議がパリ条約の枠組みの中で開催されたが、中でも特に工業所有権保護国際同盟のリスボン会議(1958年10月6~31日於リスボン)とストックホルム知的所有権会議(1967年6月11日~7月14日於ストックホルム)の2つの外交会議は、1960年代の産業財産権の発展に寄与した。

1960年代には、BIRPIの後任機関である世界知的所有権機関(WIPO)の設立準備が行われたことも忘れてはならない。上述のストックホルム知的所有権会議において、開催最終日である1967年7月14日に世界知的所有権機関(WIPO)の設立に関する条約が採択・署名され、その後、必要な署名国数の批准を得て1970年にWIPOは正式に設立した。

業務量の低減化、文献の標準化、産業財産権と文献内容の検索、統一的な特許分類の検索に関して、1950年代はコンピューター技術を導入することは検討されていなかったが、1960年代には、新しいコンピューター機器に対する期待が、ゆっくりではあるものの、着実に高まっていった。

この時点では電子化に対する意識がまだ定着していなかったが、1956年12月にスイスのベルンで開催されたBIRPIによる専門家会議において、国際特許資料センターを新設するというアイデアは既に生まれていた。このアイデアは、1958年のリスボン会議の作業部会プログラムの1トピックとして提案された。この時点で使用されていたツールは、後の1970年代初期に生まれたウィーンの国際特許資料センター(INPADOC)のツールとはかなり異なっていた。そして1990年代初期、INPADOC はその独自の特許情報活動を強化するアプローチにおいて、知識と専門性の観点から欧州特許庁を支援する第二の柱としての役割を果たした。一方、国際特許協会(IIB) は1970年代以降、新しく設立された欧州特許庁の調査と審査手続の初期の機能を実現するための第一の柱としてその役割を果たした。

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