対象となるプロジェクトの多くの観点から、1968年後半には見通しが一層明確になったにもかかわらず、サービスを実施するための最終的な役割を担うプレイヤーについての明確なシナリオは、この時点ではまだ作成されていなかった。複数の特許庁とIIBの協力で、このシナリオの実現が不可能な場合には、BIRPIと民間企業の協力が検討された。また1965年と1966年には、BIRPIのWorld Patent Indexプロジェクトの当時の実際のトピックに関して、Derwent Publicationsの創設者であるMontagu (Monty) Hyams氏は、IIBだけでなくBIRPIとも情報交換を行っていた。そのため少なくともこの時から、サービスを実装するための主要な機能へのDerwentの関与、またはDerwentの参加を概要したプロジェクトも、考えられるシナリオの1つであったと思われる。
この時点でWorld Patent Index サービスの提供者は、どのようなサービスを提供するべきかがかなり明確になっていたため、サービスを機能させるための具体的な解決策を特定することが次のステップだった。BIRPI はその後2年間にわたり、サービスに関心のある機関や民間企業を特定し、サービス確立の計画を継続して取組んだ。また、BIRPIとIIB、各国特許庁、一方で民間機関との連携を含めた様々なシナリオが検討された。そのうちのいくつかは有望であるように思われたものの、いずれにおいても、何らかの障害がその後におけるプロジェクトの実現を妨げた。当時、BIRPIとDerwentの間では、サービス立ち上げに関する連絡や交流が継続されたが、最終的にはどれも許容可能な解決策には至らず、当分の間は進展しそうにないように思われた。
特許協力条約が調印された後の1970年後半の議論には、新たな生命が吹き込まれた。おそらく、これまでPCT で行われてきた工業所有権の国際的な展望における、より調和のとれたアプローチに向けた大きな一歩が、World Patent Index プロジェクトの新たな試みへの動きを再び呼び起こしたのだろう。1971年春に、World Patent Index サービスの確立に関する具体的な提案がDerwent からWIPO に提出された。委員会のメンバーは明らかに、民間企業がサービスを提供するというシナリオを十分に納得していなかったので、提供されるサービスを民間以外の機関に委託できるかどうかを確認したかった。1971年6月、IIBは独自に対抗案を提出するために、準備期間の延長を要請した。そしてWIPOは1971年6月、より広範囲に特許文献サービス確立のための提案を提出するように求めた。ロンドンのDerwent Publications Limited により、サービスを提供するために修正された提示が入札期限内に再度提出された。別の提案は、ハーグの国際特許協会(IIB) によって提出され、第三の提案はウィーンのオーストリア政府によって提出された。サービスを提供することへの関心は、Derwentが以前から表明しており、恐らくIIB でもDerwentを検討していた(必ずしも目に見える形で示されていたとは限らない)のだろうが、ここに新たなプレイヤーとして登場したのが、オーストリア政府である。
オーストリア政府の内部調査では、すでにオーストリアに存在する文書基盤(マイクロフィルムや紙による特許文献の包括的なコレクションと同様に、世界中の特許文献の大規模なコレクションが既に構築されていた)が、オーストリアでのサービスと同様に、World Patent Indexのサービスでも容易に確立するだろうという結論に達していた。
現在では“国際特許文献サービス”と称されている、このプロジェクトを実施するための提案を含む3つの文書は、1971年9月の会議でパリ同盟の執行委員会が予備審査を行った。
WIPO条約が1971年9月に発効したため、このトピックはその後、BIRPIの後継者であるWIPOに引き継がれた。組織名は変わったものの、関係者は変わらなかった。執行委員会は、WIPO事務局長のGeorg H.C. Bodenhausen氏が、対象サービスに関する交渉において、技術協力に関する暫定委員会の常設小委員会に対し、助言する権限を与えた。この委員会のメンバーは、各国の工業所有権庁がPCT に基づく国際調査機関または国際審査機関となる国、すなわちオーストリア、ドイツ、日本、オランダ、ソビエト連邦、スウェーデン、英国、アメリカ合衆国であり、IIB もまたメンバーだった。特許協力条約の枠組みの中で、小委員会がすでに国際調査機関の文書化に関する問題処理を担当していたので、この作業を小委員会に委ねることは一貫した決定であった。
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