1974年2月には、マイクロフィッシュによるパテントファミリーサービス(INPADOC略号:PFS)と分類サービス(INPADOC略号:PCS)の初回の複製が作成され、その年の終わりには100万件を超えるデータレコードがINPADOCのデータベースに収録された。
1973年10月に“データフォーマットに関する作業部会”の会議がウィーンで開催された。その会議はその後のINPADOCユーザーミーティングの核となった。この会議では、特許登録サービスの必要性について初めて言及され、そのサービスは1970年代後半にINPADOCによって実施された。
1974年10月、INPADOC主導で第1回INPADOCユーザーミーティングが開催された。この会議は1991年にINPADOCが欧州特許庁に統合された後も、より広範なアプローチで開催された。それは欧州特許庁の特許情報ユーザーミーティングや、後の欧州特許庁の特許情報カンファレンスの核となった。
INPADOCは、1975年に早くも特許文献の問題に取り組み始めたが、実際には最近になっても十分に解決されていない問題として、様々な場面で繰り返し指摘されている。INPADOCは、各国での出願人名の表記ゆれの問題を克服するために、特許出願人名の標準化を目的としたプログラムを開始した。
1975年末には、30カ国の300万件以上のデータレコードがINPADOCのデータベースに格納された。INPADOCがデータ交換で得たデータの大部分は機械可読な形式だったものの、それでもかなりの部分はINPADOCのスタッフが手作業で取得していた。1975年1月、Japatic(日本特許情報センター)がINPADOCの代理として、日本国内でのサービス提供を開始した。
INPADOCは、特許付与機関だけでなく、産業界にも利用される世界標準のパテントファミリーサービスを提供することを主な目的として設立された。これに関連して、WIPOは様々な機会においてINPADOCのサービスを宣伝し、INPADOCデータベースの世界的な利用のための情報パンフレットを発行し、また、発展途上国に対するサービスの有用性に関する文書を作成した。さらに、1975年にWIPOとINPADOCが締結した契約に基づいて、両機関は共同でCAPRIプロジェクト(IPCに従って再分類された特許文献のコンピュータ管理)を実施した。1970年以降はほとんどの国で国際特許分類が特許文献に適用されるようになったが、1970年以前に世界中で公開された文献については、IPC分類のデータベースを構築する必要があり、その総数は2,700万件を超えた。そのため、プロジェクトは当初、PCTの最小限資料(ミニマムドキュメント)として定義された文献に集中した。INPADOCは、各国特許庁が行った再分類作業に基づいてデータを収集し、1970年以前の文献のIPC記号を含むデータベースを作成した。そして、プロジェクトはまず、特許発行機関の調査および審査を、より効率的で時間を節約できる方法で行わなければならなかった。
1976年、INPADOC初の週刊特許公報サービス、いわゆるINPADOC Patent Gazette IPGが開始された。INPADOCには、初めてコンピュータシステムに直接アクセスする端末が設置され、パテントファミリーの検索が可能となった。調査結果は、パンチされた紙テープをベースにしたテレックス送信という形式で顧客に送信された。
1978年には150以上の政府機関がINPADOCのサービスに加入し、850人以上の個人ユーザーがこのサービスを利用していた。設立からわずか6年で、INPADOCのユーザーは1000人を超えた。つまり、数年のうちにサービスが広く受け入れられていたということである。INPADOCのパテントファミリーサービスは、提供されるデータの質と完成性の面で優れたイメージを確立していた。INPADOCが自社のパテントファミリーサービス以外のデータベースホスティングサービスを提供する立場ではなかった、という事実を踏まえると、このサービスをより広範に利用されるようにする必要があった。その結果、CAS, Chemical Abstract Services, FIZ Karlsruheとの間で、それぞれINPADOCのデータをホスティングする契約が締結された。
これまでのユーザーの要望に基づき、1978年に具体的に議論された結果、1979年に特許登録サービスPRSが利用可能となり、以降、INPADOCはパテントファミリーサービス及び特許登録サービスをオンラインで提供するようになった。
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