その後、INPADOCのファミリーデータベースやJapaticのPATOLISデータベースなどのオンラインデータベースの作成により、両機関のパートナーシップをさらに深めていった。日本初のオンライン特許情報検索システムであるPATOLISデータベースは1978年に運用を開始した。オンラインデータベースとしての提供は、この目的のためにJapaticに必要なデータを提供し、使用を許可した日本特許庁の支援を背景に可能となった。当初、PATOLISデータベース検索システムは、日本の特許公報データと米国の特許データをオンラインで提供していた。ほぼ同時期に、INPADOCは当時約40カ国の書誌データのコレクションをもとに、パテントファミリーデータの最初のオンライン検索サービスを提供していた。
可能な限り包括的な情報を提供するという目的に沿って、書誌データの相互交換と、双方が保有する米国特許公報のデータセットの完成というトピックも、その後の数年間は重要な課題となった。特に、情報プラットフォームの重要な要素として米国データへのアクセスを提供しているPATOLISシステムにも注目が集まった。それにもかかわらず、両者の協力テーマの焦点は、品質向上、完全性、(主に欧米諸国での)理解のしやすさ、そして何よりも、両者が利用できるデータ量の全般的な強化へと徐々に移行していった。
1978年にPATOLISの立ち上げを成功させた後、1979年にはすでに、Japaticが日本でINPADOCのパテントファミリーオンライン検索サービスを提供するために、PATOLISのさらなるモジュール(後にPATOLIS-INPADOCを意味するPATOLIS-Iと呼ばれる)を作成することについての議論が始まっていた。これに関連して、機械可読形式でJapaticに配信されるINPADOCデータベースの管理面および技術面での明確化が必要となった。目標は、PATOLIS-Iのオンラインサービスと、計画中の一括検索システムの利用という形で、日本市場にサービスを提供することだった。INPADOCのファミリーデータのテープを配信することで、定期的なアップデートをJapaticに提供した。さらに、地域的な活動やデータ提供の財務面に関する規定も合意されたが、これは両機関の商業活動の強化に伴って重要性を増していった。
テスト段階を経て、一連の詳細について合意した後、INPADOCは1982年の年初からPATOLIS-Iで使用するための定期的なデータ提供を開始した。その見返りとして、Japaticは、すべての公開特許公報のデータテープ仕様(出願人、発明者、発明の名称)に従った3つの書誌データ11~13を、機械可読形式で英語にて、公開後できるだけ早くINPADOCに提供することを約束した。この英訳はJapaticが定期的に作成していた。この契約では、メディアを問わずINPADOCが直接提供する既存のデータサービスに翻訳を含めて提供することが認められていたが、外部ホストで利用可能なINPADOCのデータベースにも翻訳を含めることができた。それと引き換えに、INPADOCは米国のデータをJapaticに提供し続けることを義務づけた。
原則として両機関は、特許データや特許情報データへのアクセスを向上させるために必要な活動を行う権限を持っていたが、少なくとも経済的成功に財政的に貢献する、あるいは長期的には自己資金で賄えるようにするという義務もある程度は負っていた。結果的に、両組織で商業的なアプローチが増した動機は、ある程度このような背景にあったが、デジタル化、翻訳、自動化のコストが高いという事実にもあった。その一方で、より良い情報、より包括的な情報を得たいというユーザー側の関心も高まっており、そのために十分な対価を支払うこともある程度は認められていた。どちらの地域でも、ユーザーはよりアクセスしやすい環境で、より多くの情報を得たいと考えていた。例えばヨーロッパでは、英語のデータへの関心が高まっていた。一方、日本でも同様に、世界の特許情報へのアクセスの関心が高まっていた。この頃は、商業的なニーズと期待される成功が、サービス向上の動機の重要な部分を占めていたことは驚くべきことではない。とはいえ、この数年間は、サービスやデータの内容を改善することで、特許情報へのアクセスをより広くするための第一歩となった。当初は、価格が高く、データにアクセスするための障壁も高かった。 しかし、その後の数十年間で、価格と障壁は段階的に低下し、最終的に1990年代には主要な特許庁が採用した限界費用のアプローチが採用され、これにより商業部門にもある程度の影響を与えることになった。
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