両機関が協力して、より広範な内容と高い実用性を持つ情報へのアクセスを高速化したことは、PATOLISデータベースの提供によってアクセスの壁をさらに低くし、欧州での日本語データへのアクセスを容易にすることに大きく貢献した。その一方で、PATOLIS-Iを介してINPADOCのファミリーデータを提供することで、日本市場でも世界の情報にアクセスしやすくなった。
両機関の良好な関係と、両地域で両機関が開発したさらなる情報関連製品への関心の高まりを受けて、JapaticとINPADOCは、それぞれの市場で相互に代理店となり、特許情報サービスのユーザーに提供できるデータの量、容量、内容、使いやすさを段階的に向上させることで、様々な製品やサービスで協力関係をさらに深めていった。これに関連して、継続的な交換データの範囲を拡大し、オンラインアクセスの機能を改善し、データの提供とデータの使用に関するさらなる合意が、両地域での特許データの利用の可能性に貢献した。英語データの交換、INPADOCデータの範囲と内容の改善、CAPRIシステムや日本語CD-ROM、英語の書誌データやCD-ROMに収録された抄録などの、後続製品に関する一般的な相互代理契約の締結により、両機関は特許ドキュメンテーションの自動化の初期段階において重要な役割を果たした。
1985年、Japaticと発明協会の特許情報サービス部門が統合され、日本の通商産業省と特許庁の指導のもと、総合的な特許情報サービスを提供する新組織、日本特許情報機構(Japio)が発足した。Japaticを設立した頃の政治的な目標は、紙やマイクロフィルムなどの伝統的なメディアから、より新しいメディアへの移行をサポートする方向で、特許情報分野の技術開発を整備することだったが、これは主に、前途有望なコンピュータ技術とインフラ、そして急速に進化する自動化ツールに依存していた。 これと比べると、1985年の再編成は少し違った解釈ができる。データ処理のデジタル化と自動化が進んだことを受けて、技術や自動化のインフラを継続的に改善することに加えて、あらゆる分野でアクセスを拡大し、サービスレベルを向上させることが新たな目標となった。
組織の名前はJapaticからJapioに変わったが、INPADOCと新組織の良好な関係は変わらず、同じ目標についての既存の相互理解を再確認し、特許情報ユーザーコミュニティの利益のために一層の開発に取り組む意思を再確認した。1991年1月にINPADOCがEPOに統合されるまで、2つの機関の間でさらなるプロジェクトの提案を行うための作業が続けられていた。その成果の一つとして、PATOLISシステムを通じてINPADOCのリーガルステータスデータが日本で提供されることになった。
1970年代から1980年代にかけての数十年は、従来のメディアや情報技術が大きく変化した時代だった。 この数十年間で最も一般的な記憶媒体は、紙、フィルム、マイクロフィルム、マイクロフィッシュ、磁気テープ、フロッピーディスク、そして後にはCD-ROMとなった。顧客に情報を提供する手段は、ほとんどの場合、手紙や電話などによる顧客の要望に基づいていた。当初は紙などの物理媒体が中心であったが、その後テレックス、テレファックス、パケットスイッチングネットワークなどのインフラやデータアクセス方法によるオンラインサービスへと変化していった。
JapaticとINPADOC(後のJapioも)の両機関は、当時としては革命的な発展をほぼ同時に経験したことで、新しいメディアとその技術的特性に関する深い基礎と知識を構築することができた。 このような深い知識により、両者は、初期段階では特許ドキュメンテーションについて、後には特許情報サービスについても、サービス、および、情報提供者としての先駆的な役割を果たしてきた。 1970年代と1980年代にこの2つの機関が行った活動により、自動化が多くの面で成功を収めたことはそれだけではなく、1990年代以降の自動化の環境、さらには特許情報ランドスケープにおいて、かなりのスピードで発展していくための多きな基盤となった。
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