EUROPATIC案のシナリオでは、データベースを一般に提供することにより、配信経路や利用契約の正しい実施、契約の財務面での管理を維持することにもEPOが高い関心を持っていたことは驚くことではない。INPADOCとの契約では、EPOがINPADOCとの間だけでなく、各国特許庁や特定のホストとの間でも、契約条件の遵守を管理する権限を持つ代表者を指名できることも定められていた。そのため、INPADOCの執行委員会とEPOの代表者との間で、年に2回の協議会を開く必要があった。また、この代表は、この契約に関するテーマがINPADOCの監査委員会で議論されるときにはいつでも、会議に参加する必要があった。

1984年4月1日付で、INPADOCはこの協力協定に沿った義務を果たし始めた。各国特許庁に提供可能なホストの決定と通知を行った。利用可能なデータベースの一部を公開するという試みに関する検討事項は、管理理事会で広く議論されており、少なくともこれらの議論によって、各国の特許付与機関の代表者は十分に情報を得ていたが、締約国の最初の反応はかなり消極的であった。この背景には、国の政治的な理由があったかもしれない。あるいは、必要なインフラや機関が締約国に存在しないか、あるいはまだ存在していないのか、国内レベルでのデータ提供を可能にするためにはさらなる準備が必要なのではないか、という疑問があったのかもしれない。事実、1984年末までに、EPOデータを公衆アクセスできるオンラインデータベース形式で提供可能なホストを指名した国はフランス1国だけであり、フランスはTélésystèmes Questelを指名した。また、フランスに加えて英国特許庁と、ドイツ特許庁を管轄するドイツ司法省も、ホスト候補を指名していた。しかし、この2つのホスト候補は、データベースをホストのコンピュータシステムにロードするための準備が十分に進んでいなかったらしく、1984年末までにはさらなるホスト契約は結ばれなかった。

1983年の管理理事会の決定の結果を評価すると、その後の情報技術の発展から見て、それが非常に前向きな試みであったことは明らかである。決定当時、EPOのデータベースを公開する範囲や条件がかなり制限的な側面があったことはさておき、国際的な特許情報ランドスケープにおいても、中長期的な影響を与える試みだった。そして本当の意味での大きな前進は、高度に自動化された環境下でEPOがデータベースを一般に提供することは、EPOにとっても(費用を節約することで)ユーザーにとってもメリットがあるという意味で、初めて明確な理解が得られたという事実がある。この試みにより、ユーザーは、特許制度の財政的側面だけでなく、利用可能な情報の幅広さやデータへのアクセスのしやすさなど、より多くのメリットを得ることができるようになった。

1983年の決定は、欧州の特許情報政策の発展における3つの主要な段階のうちの最初の段階と理解することができる。1980年代初期(EUROPATIC解決策の時代)の「情報の流れの制御」から、1990年代(INPADOC統合後の最初の数年間)の「情報の自由な流れ」の時代へと続く。1990年代(INPADOC統合後の最初の数年間は、依然として商業的側面がある程度強調されていた)には、最終的には、欧州レベルだけでなく、1990年代後半に三極特許庁間の協定などで世界レベルでも合意されたように、何の制限もない「自由な情報の流れ」が実現した。その後、この「情報の自由な流れ」の考え方は、2000年以降に5つの知的財産庁(中国、欧州、日本、韓国、米国)レベルで締結された特許情報普及政策協定の基礎にもなった。

当時、まだ若かった欧州特許機構は、特許情報へのアクセスを可能にする既存の障壁を段階的に減らし、最小化し、最終的に排除することで、その後の数十年間の特許情報の世界に長期的な影響を与える決定を下した。

目次

前章 49章:情報普及に関するEUROPATIC解決策

次章 51章:EUROPATIC解決策の側面:概要