1983年に発表された情報普及のためのEUROPATIC解決策は、次のような要素で構成されていた。特徴的であったのは、EPOのデータを一般に公開するには、EPOが直接ではなく、各国特許庁を経由して行うべきだという決定だった。各国特許庁が自ら情報を配信する立場にない、あるいは関心がない場合には、特別に選ばれたホスト事業者のみがデータを配信する権限を持った。そして、これらの特定のホスト事業者は、EPCの締約国によって指名されなければならなかった。さらに、非常に重要な点として、事業者は欧州在住でなければならない、つまり、欧州に事業所を持っていなければならないという要件が明示された。そして、事業者に提供されるデータは、欧州特許条約の締約国の領域内にあるコンピューターにのみ保存され、処理される要件が明確に述べられていた。
EPOとINPADOCとの間の協力協定の枠内で決定されたデータ配信経路は、INPADOC設立時にWIPOとオーストリア共和国との間で合意された、全世界のパテントファミリーサービスを提供するというINPADOCの基本的な任務を妨げないように、明確に定義されたものだった。各国特許庁とホスト事業者へのデータ提供条件は、原則として、EPOデータベースのデータとホストが所有するデータを組み合わせることができた。しかし、INPADOCの立場が弱くならないように、また、徐々に発展している民間の特許情報部門の自然な競争力を妨げるほどINPADOCの立場が強くならないように、契約には特別な注意が払われていた。そのため、各国特許庁やホスト事業者に対するデータ提供条件は、INPADOCとの間で配布や商業的側面に関する特別協定が締結されていない限り、EPOデータベースとINPADOCデータベースとを組み合わせることは認めていなかった。
さらに、契約国以外の第三国の特許庁には、原則としてデータにアクセスさせないという決定により、データ提供条件の欧州的性格が強調された。EPOと第三国特許庁との間で特別協定が締結された例外的な場合にのみ、EPOデータへのアクセスが当該特許庁に認められた。
このような例外的な例として、1982年の三極間レベルでの最初の議論ですでに締結されていた、三極特許庁間のデータ交換協定があった。
しかし、三極間レベルでの進展に加えて、この時点での欧州のアプローチは、付加価値のあるデータが欧州諸国の競争上の優位性とみなされていたと解釈することができる。さらに、一般に公開されたデータは、アクセスの条件についても内容が制限されていた。このようなアプローチは、原則としてEUROPATIC協定のコーナーポイントに沿ったものと理解できる。しかし、ここで重要なことは、データを一般に公開するという広範なアプローチに移行しようとする原理的な試みが徐々に進展していることに加えて、この時期はまだ可能性が残る政策決定が広範に展開されていなかったということである。そのため、この時期には、データを公開するかどうかの判断は、その都度、個別に行われていた。
要約すると、少なくとも1980年代のこの時期は、比較的保護主義的な欧州の情報政策であり、民間企業に対してはかなり制限的な対応(高額なロイヤルティ、独占契約、欧州のデータ提供者を優先、データ利用の可能性を制限)をとり、また第三国との協力は限定的であり、公的機関への配布は非常に厳しく管理されていたと言える。
しかし、一連の制限が設けられたものの、それまでの保守的なアプローチに比べて、より自由な方法で既存の特許文献の少なくとも一部を公開するという先駆的な決定がなされたとも言える。これにより、その後の数十年間のEPOの情報政策をさらに発展させるための基盤が整った。
1970年代から1980年代の数十年を振り返っても、特許の世界の国際的なランドスケープの中で、どこのポイントが自由な情報流通政策に向けた検討の最初であったのかを正確に結論づけることは容易でない。事実、ほぼ同時期に、つまり1970年代後半から1980年代前半にかけて、主に日本国特許庁とUSPTOが、従来のメディア、特に紙媒体でしか入手できない膨大な量の特許データを正確に管理するという問題意識が急速に高まっていることを認識していた。まだ若い組織であるEPOでは、この問題はそれほど緊急性の高いものではなかったが、今後の課題としては認識されていた。新技術動向の発展、コンピューター技術の使用の増加、自動化の急速な発展によって示された機会、これらすべてが、仕事量の増加と(従来のメディアで管理されるべき)特許出願や特許公報の量が急速に増加しているという背景と相まって、各国特許庁での管理プロセスを新たに考案し、自動化ツールにますます頼ることで新しいツールやメディアを使用することを検討するきっかけとなった。そして、これらの検討は最終的にデジタル化を促進し、データにアクセスするための機会を一般に広く提供することによって、情報政策を段階的に自由化するための基礎を築いた。これらの検討事項、新技術が提供する機会とその結果としての発展、これらすべてが相まって、1980年代初頭の特許庁間の協力プロセス、特に欧州、日本、米国の3つの特許庁間の協力への道が開かれたのである。
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