1981年にジェラルド・J・モシンホフ氏がUSPTO長官に就任したとき、USPTOは毎日約2万通の郵便物を開封、仕分け、配布していた。これは、米国の郊外の大規模な郵便局で、この時期に通常取り扱われる紙の量であった。また、毎日1万3,000部の紙の特許出版物を販売し、年間10万件以上の特許出願を受理していた。1980年代の初期、USPTOでは、処理しなければならない膨大な量の紙や情報をより具体的にイメージできるように、次のような例がよく使われていた。USPTOで年間に処理される紙を一枚一枚敷いていくと、北米大陸を横断する道ができ、受理された出願書類は約550メートルの高さの紙の山になってしまう、と。

実際には、USPTOが処理する紙の量の問題だけではなかった。膨大な量の紙を管理することは、いくつかの不都合な副作用も伴っていた。USPTOのスタッフが検索しやすいようにファイルが大まかにまとめられ、さらに同じファイルが一般にも公開されていたため、常に使用されている文書の6%以上が欠落していたり、誤った文書が混入していたりするという問題が避けられなかった。また、毎日2万通の郵便物を既存のファイルに加え、約36万件の特許出願を管理していたため、必然的にエラーが発生していた。その結果、不完全なデータに基づいて特許付与の決定がなされることが多くなり、それに伴って好ましくない側面も見られるようになった。

100%に近い精度とファイルの完全性という目標を達成するためには、自動化されたシステムに移行しなければ、前述の問題を長期的に解決できないことが明らかになってきた。紙から自動化システムへの移行と、特許付与プロセス全体のリエンジニアリングを組み合わせることで、増加する紙の負荷、作業負荷、不正確さの問題に対処できるようにすることが緊急の課題であると認識された。1980年、米国の新しい法律がUSPTOに特許付与プロセスの自動化に関して、より効率的で正確なものにするために必要な措置を講じることを義務付けていた。ペーパーレス特許庁というキャッチフレーズは、大規模な特許庁の将来的な発展のビジョンに火をつける基盤となった。

当時、世界の主要な特許庁であった日本国特許庁と欧州特許庁も、同様の経験をし、同様の問題を認識し、作業量を管理し、プロセス全体の精度を保つための可能な解決策について、同様の検討を行っていた。

1980年代初頭、日本国特許庁では、特許出願数が年間15%増加していた。このような状況下で、もし対策を講じていなければ、出願審査期間は2年から7年に延び、文書アーカイブは10年以内に2800万文書から5000万文書以上に増加していたであろう。そして、日本でも文書化のシステム全体が、適切かつ有用な方法で管理できなくなる恐れがあった。当初日本では、米国のように自動化された将来の特許庁のシナリオに関する詳細なビジョンは構築されていなかったが、1983年春には、ペーパーレスの日本国特許庁の提案がなされた。

また、1977年に設立されたEPOは、年間最大3万件の出願を処理することを想定していたが、1981年には予想外の早さでこの閾値に近づいていた。この時、ハーグ支部だけでも、検索書類を収容するために約17キロメートルの棚が必要となった。この初期の段階では、EPOに対する圧力は先の2特許庁に比べて低かったものの、何も対策を講じなければ、数年以内にEPOは他の2特許庁と同様の圧力を受けることになるだろうと予測できた。

問題の緊急性が高まっているという印象を受け、1981年11月、モシンホフ氏はEPO長官のボブ・ファン・ベンテム氏に、自動化、情報処理の重複を避けてコストを削減、電子形式での情報交換を促進するという共通の長期目標を追求するため、両庁間の協力を開始することを提案した。その後、1982年6月にUSPTOで行われた両長官の会談では、両庁の主要スタッフを同行させていたため、詳細な技術的な質問についても目覚ましい進展が見られ、両長官によって覚書が署名された。これにより、技術人材の交流、自動化に関連する情報の交換、文書分類システムの調整と調和、検索結果の交換、マイクロフィッシュと磁気テープ上の文書とデータの交換などのテーマを中心に、両オフィス間の対話をほぼ毎年継続し、深めていくことが合意された。また、この第1回会合では、合意後すぐに効果を発揮できる現実的な副次的結果として、両庁は、将来的にEPOがUSPTO(当時はまだUnited States Patent Officeという名称だった)に提出された国際出願の管轄国際調査機関として活動することに合意した。

目次

前章 51章:EUROPATIC解決策の側面:概要

次章 53章:三国間協力への道