1980年代初頭、特許付与手続きに関連する特許文書や資料が増え続けているという印象を受け、USPTOは前例のない電子データ処理を用いて膨大な量のデータを処理するための具体的な手段を講じることを義務付けられた。この義務付けがなされる以前から、USPTOはこの方針を検討しており、新たな技術を採用する方向に進めば、特許付与プロセス全体の品質が大幅に改善されると確信していた。1982年6月17日にモシンホフ氏の主導で調印されたEPOとUSPTOの覚書は、主に不必要な作業の重複を避けることを目的としており、特に専門的な知見に関する情報交換、専門家の交流やデータキャリアの交換が行われた。これにより、増加する作業量についての協力体制の強化が主要な目標として、初めて明確に表明されたのである。それ以来、あらゆる面で作業の重複を避けるという課題は、将来的な各国特許庁間の協力関係構築のための重要な要素であり、決定的な要因となっていた。そして、1982年6月のこの覚書は、後に実施される三国間レベルでの協力の核となる部分の一つである。

1982年10月、USPTOのモシンホフ氏と日本国特許庁の若杉氏は、ジュネーブで開催されたWIPOの理事会に出席した際に、作業量、膨大な書類、最終処分期間の短縮に向けた努力を強化する必要性の増加といった、互いに直面している類似の問題について意見交換を行った。このジュネーブでの議論を受け1983年1月には、日本国特許庁長官の若杉和夫氏とUSPTO長官のジェラルド・モシンホフ氏による会議が東京で開催された。また、1982年6月に締結されたEPOとUSPTOの間の覚書と同様の問題と目標を扱った覚書も締結されていた。

1982年初頭、日本国特許庁の内部予測では、日本の特許管理システムが将来的に崩壊する可能性が明確に取り上げられていた。また、対外的には日本と諸外国との間に生じる「特許摩擦」という新たな問題に直面していた。このような問題に直面して、1982年6月に特許庁に設置された長期問題検討委員会は、現実の問題の解決策を検討し、現行の工業所有権政策を徹底的に見直すことを任務としていた。

1983年3月、委員会は結論を発表し、今後の活動の基礎となる一連の重要な要素を明らかにした。その中には、特許付与プロセス全体のペーパーレス化、特許システムのコンピューター化における他の先進国との協力、国内外の特許データの相互アクセス、特許制度の調和などの要素が含まれていた。このような詳細な仕様が策定されたことで、日本は国際レベルのより広い視野の協力のための基盤が準備された。

情報量と文書の急増の問題に最も影響を受けている特許庁が参加したUSPTOと日本国特許庁の協定、USPTOとEPOの協定は、1983年10月にワシントンで開催された第1回三極会合への道を開いた。

今回の会議では、年1回の会議の継続、専門家の交流、自動化の導入、文書の分類とインデックスの作成、特許検索結果の共有、特許文書の交換などを協力することに合意した。さらに、特許情報の公共セクターおよび民間セクターへの普及の評価や、特許出願の自動処理や電子データ交換の標準化などの共同プロジェクトを評価することにも合意した。

このように、三国間協力の初期段階では、協力開始のために主に3つの分野に集中するとの方向性が定まった。第一に、特許出願の急激な増加がもたらす問題に対する共通の解決策を見つけるためのデータ、製品、統計の交換や、職員の交流であった。第二に、これは特に強調しておきたいことだが、3つの地域で一般の人がアクセスできる共同データベースを作成することを目的とした、特許情報の普及に関する政策の調和であった。1980年代初頭、世界の特許情報の普及に対する姿勢は、後に1990年代に自由主義的な特許情報政策となるものに比べてかなり制限的なものではあったが、1980年代初頭にすでにこのテーマが重要性の高いテーマとして認識されており、三極特許庁ではこのテーマに高い優先度が割り当てられていたことを理解することが重要である。そして第三は、手続きの互換性を高めるために、三極特許庁の特許実務に関する情報を交換することであった。

目次

前章 52章:1980年代-三極間協力の基点

次章 54章:初期における三国間協力の開発