1968年末、フランスの外務大臣が統一プロジェクトの再開に向けてイニシアチブをとった。EECの閣僚理事会には、欧州特許法のテーマを復活させるという提案がなされていた。今回、欧州特許法に関する交渉は、この分野におけるEECの活動の傍らでEFTAが開始したプロジェクトにある程度沿って、2つの条約の起草を視野に入れて行われるべきである。ここ数年、統一特許のプロジェクトが遅々として進まなかったことを念頭に置き、EFTAがすでにこのテーマで得た経験を考慮して、このプロジェクトはすぐに2つのプロジェクトに分割された。一方は、欧州特許庁が欧州の多くの国々に開放された特許の束を付与するプロジェクトであった。もう一方は、EEC加盟国のみに開放された単一の特許としての統一特許のプロジェクトであった。

EFTA(欧州自由貿易連合)の加盟国は、EECの特許制度統一プロジェクトに関するEECの議論から除外されていたが、特許法の調和という同じ目的を共有していた。1965年、EFTAは、特許付与までの手続きを網羅し、EEC非加盟国の完全加盟を可能にする条約を作成するための作業部会を設立した。実際、1968年には、この作業部会は、異なるが互いに補完し合う2つのプロジェクトに関連する多くの専門知識をすでに得ていた。

欧州共同体理事会は、欧州特許法の交渉再開というフランスの提案に好意的な回答をした。最初に提案された条約プロジェクト、すなわち特許の束の解決策に関しては、政府間会議が開催された。後者のプロジェクトについては、加盟国と欧州委員会の専門家からなる作業部会が設置され、EEC加盟国のみに開放された統一特許の条約が準備された。

1969年5月から1972年6月にかけて、一括して特許を付与する欧州特許庁に関する政府間会議が開催された。この会議(ルクセンブルク政府間会議として知られる)の終了時までに、欧州特許を付与するための欧州特許制度に関する条約の草案がまとまり、ミュンヘン外交会議の作業の基礎となった。この政府間会議で作成された草案に基づいて、欧州特許条約が採択され、1973年10月5日、ミュンヘン外交会議の場で調印された。

政府間会議と並行して、EECによって設立された作業部会は、統一特許(欧州共同体特許)を、特許の束を付与する(国際的な)欧州特許制度に組み込むためのアプローチを深める作業を行った。1969年、EU閣僚理事会は、第二の条約である共同体特許条約の作成に着手する決定を採択した。作業部会は、1962年に作成され、1965年に修正された文章で再検討された草案(いずれの草案も発効しなかった)に基づき、ルクセンブルク政府間会議での進展を観察し、念頭に置きながら、条約の第二修正版を起草した。

会議では、両方のアプローチが並行して扱われ、さらに発展していった。このことは、特に、明らかに全く異なる外部条件と利害関係者から検討される必要があった法的枠組みの開発に関して、迅速な情報交換と意見交換を行う上で、いくつかの利点があった。EEC加盟国のための欧州共同体特許のアイデアは、すでに20年近く追求されていたのに対し、国際的な一括特許付与機関というEFTAのアプローチは、その後に提案されたものであったため、政府間会議の準備段階では、おそらく欧州一括特許の解決策は、一時的な妥協案としてしか捉えられていなかったと推測される。

実際、政府間会議の最終的な結果が示すように、欧州特許条約のプロジェクトは、単一効特許の確立にはもっと時間がかかるはずであったのに対して、特許の束の解決策を伴って急速に具体化した。1969年から1972年にかけての政府間会議とほぼ並行して、EECの作業部会のメンバーによって、統一特許に関する条約の草案がすでに完成していたにもかかわらず、欧州共同体加盟国の特許保護手段としての実現には、まだ数十年を要するものであった。欧州特許庁がミュンヘンに設立され、特許の束という解決策を得たことは、欧州における特許保護への大きな前進であった。他方、欧州特許庁は、EECの法的秩序の外にある国境を越えた機関であるため、EECの法的規則の範囲内において、非常に単純かつ直接的なプロセスを経て共通の単一効特許の環境を実現するという共同体特許プロジェクトの当初の目標は、期待されていたほど摩擦なく迅速に達成することはできなかった。これは、特許の統一という目標を達成するために必要であるとEECが考えていた国内法の撤廃をある程度伴う、法律と手続きの調和という問題が立ちはだかっていたからだけではない。また、各国の利害が多様であり、EEC加盟国が、より大きな経済市場がEEC加盟国にもたらす利点を享受するために、どの程度まで国家主権を放棄する用意があるのかという問題もあった。

目次

前章 第81章:単一効特許に向けて:欧州(単一効)特許条約の第一次草案(1962年)