3章: 1960年代

1960年代前半に、EECの初代6か国の政府の主導で、欧州特許法の共同体条約草案の検討が委託され、結果的に二年後にはより意欲的な協定の草案 をもたらした。

1963年には 、EEC 特許作業部会の取り組みが極めて重要な協定につながった。1963 年11月27日に、ストラスブール協定が調印され、欧州における実質的な特許法の一定の要素、すなわち、特許性の主題および特許保護の範囲が統一された。それにより、特許性に関する主要な共通条件、すなわち新規性、進歩性、産業上の利用可能性が明確になった。この協定は1953年と1954年の協定後三番目のものであり、さらなる発展にとって別の重要な基礎となった。

1962年の後数年の間、EECの意向を受けて、共同体条約草案の作業は継続された。新制度はEECのメンバーだけが利用できるか、他の国々も利用できるかが考慮された。一方で中心的メンバーへの制限は 短期間においては実現したが、かなり小規模のグループであったため、長期的発展は不確実と思われた。他方で、EEC以外のメンバーへも制度を開放することは、短期間に国家の統合に必要な全ての要素を実行するのをより困難にした。

考慮すべき主な問題の一つは、英国をプロジェクトのメンバーとすべきか否かということであった。このことは統合プロジェクトを前進させるうえでさらなる困難となっていた。1965年のEECの“空席危機”により、一定期間さらなる発展が停止することになった。

欧州特許制度の統一のためのさらなる取り組みに関して、ある程度欧州がまひ状態であった一方、同じ期間に他の世界規模の進展があった。1960年代半ばに、USPTO (米国特許商標庁) と欧州各国の特許庁は、急速な特許出願の増加に直面した。増え続ける仕事量のプレッシャーを受けて、数か国で同一の発明の特許出願および審査をどのように容易にするかという検討が行われた。いくつかある重要性のなかで、BIRPI (知的所有権保護合同国際事務局:WIPO(世界知的所有権機関)の前身) は、1960年代後半に特許付与手続きにおける出願人および特許事務所の作業を制限する方法に関して検討を行った。また、これらの発展の結果として、1970年には世界30か国以上の国々がワシントンで、先行技術調査、予備審査、調査報告および特許性に関する見解といった手続き段階を含む特許出願の国際的な枠組みを定義する特許協力条約に調印した。

これら世界的規模の発展と平行して、欧州政策もまた、ますます統一欧州特許制度の必要性を意識するようになった。この目標に向けた新しいイニシアチブが1968年にフランスから生じた。

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