8章: 1973年のミュンヘン外交会議
… 統一特許の最初の草案は1973年にのみ作業部会により提出された。それから、最初の共同体特許条約 は1975年に採択された。
欧州特許制度の導入に向けた主要決定事項や草案の大部分が政府間会合でまとまったことから、過去数十年に進展した二つのシナリオの少なくとも一つの実施に向けた次の決定的な段階に入った。予備段階の結果に基づいて、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)政府の招きで、特許付与の欧州制度設立のための外交会議が1973年9月10日から10月5日までミュンヘンで開催された。このミュンヘン外交会議では、後の欧州特許機構(European Patent Organization)と、その機関である欧州特許庁およびこれを管理する管理理事会の設立の基礎が築かれた。第二のシナリオである共同体特許については、1973年10月時点で草案作成作業が続いていた。
特に、ルクセンブルク会議の期間中に会議の準備作業が包括的に行われたが、会議期間中に決定されるべき保留点はまだ残っていた。4週間の会議期間中に検討しなければならない参加国による追加の提案が100以上もあった。それにもかかわらず、会議は全ての予定されたプログラム(170以上の条文、100を超える規則、議定書、追加の決定事項を含む国際協定の策定)をなんとか期間中に終了させ、1973年10月5日の正式合意の準備ができた。
先の政府間会合への参加に従って、23の欧州諸国がミュンヘン外交会議に招待された。キプロスとアイスランドを除いて、全ての招待諸国 (オーストリア、ベルギー、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、アイルランド、イタリア、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、モナコ、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、トルコ、英国、ユーゴスラビア) が会議に参加した。さらに、13の非政府組織 (AIPPI=国際知的財産保護協会、FICPI=国際弁理士連盟、UNICE=欧州産業連盟 等の団体) や4の政府間組織(WIPO=世界知的所有権機関、IIB=国際特許協会、the Council of Europe=欧州評議会、the Commission of the European Communities=欧州共同体委員会) もオブザーバーとして出席した。さらに、日本特許庁と米国特許庁の代表者もリスナーとして参加を許可され、合計で200以上の代表者が会議に出席した。
このミュンヘン外交会議で策定される国際協定の実施は将来の締約国の法律や実務に大きく影響を与えることが明らかだったので、関係諸国の代表者の出席は自国の利益にとって欠かせないものであった。法的枠組みにおいて、この国際協定はパリ条約に関連し、この国際協定と1970年採択の特許協力条約(PCT)は調和するから、WIPOによる会議への参加は非常に重要であることは間違いなかった(なお、特許協力条約は、この時にはまだ発効しておらず、IIBが国際調査機関と呼ばれていた。)。同様に、先行技術調査と審査をする将来の欧州特許庁の実用的な機能の観点から、IIBの代表者の参加もまた、この会議の結果の円滑な実施のために重要であった(欧州特許庁へのIIB の統合は労働条件に影響すると見込まれたため、IIB職員自身により会議への参加が切望されていた。)。最後に、政治的側面からの参加と同様に、ユーザーの代表者の参加も会議の成功において非常に重要であった。
国際的な習慣に従って、西ドイツ法務大臣のJahn氏が主催国の代表者として会議の議長に選ばれた。会議の数週間で最高の効率を得るために、欧州特許庁の“創設の父”を巻き込んだ会議準備の特別の状況に対応する3つの主要委員会が導入された。委員会Iは当時のドイツ特許庁長官であったKurt Haertel氏が議長を務め、特許法の問題について委任された。委員会IIの議長を務めたFrançois Savignon氏は組織的事項、国際法手順および中央集権化の議定書について委任された。委員会 IIIは英国特許庁の Edward Armitage 氏に率いられ、将来の特許庁の財政的問題について委任された。そして、この時のオランダ特許庁長官のJohannes Bob van Benthem氏は全体的な起草委員会の議長として、また会議の最初と最後に開催される総会の全体的な報告者として選任された。欧州特許制度は過去数十年前から構想されていたところ、このキーパーソンたちは、欧州特許制度の構想について当初から貢献しており、欧州特許制度の統一に向けた決定的な役割も果たした。
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