17章: 欧州特許制度 – 1970年代の見通しと懸念
…登録された欧州特許についての将来の異議申立ておよび審判もミュンヘン支部で扱われた(OJ 5/1979:202)。
欧州特許条約の効力発生と、それに続く欧州特許機構(European Patent Organization)と欧州特許庁(European Patent Office)の設立には、少なくとも欧州6か国の批准が必要不可欠な条件であった。スイス、ドイツ、フランス、英国、オランダに続いて、ルクセンブルグが6か国目に条約の批准をした1977年7月7日に、欧州特許条約の効力発生条件が満たされた。3か月後の10月7日、数十年に議論が及んだ共通の欧州特許制度についての欧州特許条約がついに発効し、欧州における特許分野の一元的取り組みに向けて英断が下された。ルクセンブルグが批准した1977年7月から欧州特許条約が発効した10月までの間に、ベルギーもまた欧州特許条約に批准し、1973年のミュンヘン外交会議で条約に署名した16か国の加盟国のうちの7か国が、欧州特許庁設立初期の“活動国”となった。
欧州特許制度の設立に向けた明確な政治的意思が1973年のミュンヘン外交会議の期間中に示され、創設加盟国16か国で欧州特許条約が受理された。その後数年間に欧州特許庁に申請される出願件数に加え、新しい欧州特許制度が真の成功と言えるほどの出願件数が生じた場合、欧州における特許出願動向の変化が予想された。しかし舞台裏では、新しい欧州特許制度は、欧州だけでなく、世界中の出願人にどの程度まで受け入れられるかは不透明だった。
欧州特許条約署名時および欧州特許庁設立当初、新しい欧州特許制度は、どの程度まで、またどの程度の速さで、従来の制度に代わる効率的な制度として出願人に採用されるのかが問われていた。以前は、欧州の複数国で特許出願をする際は権利を取得したい国を経由しなければならず、他の国々でも同じ手続きを繰り返す必要があった。そのため、発明の保護のために少なくとも3か国以上の対象国を出願時に指定する新しい欧州特許制度と比較すると、以前は費用も高かった。
各国特許庁にとっても、新しい欧州特許制度の環境下で各国特許庁自身がどのような役割を果たすのかが課題だった。彼らは、各国特許庁の存在が中期的に疑問視され、国内特許出願の件数が急速かつ大幅に減少する今後の状況を懸念していた。そして弁理士さえも、彼らの業務の需要が新制度で停滞し、減少すら起こり得るのではないかと状況の進展に不安を感じていた。
政治的観点から、欧州特許庁の設立は大成功であったが、またそれは全ての参加国と関係機関にとって大きな課題でもあった。国益及び各国特許庁の利益については、こうした利益よりも欧州の統一特許制度構想を優先させる必要があった。欧州特許制度全体に活気を与え、願わくは成功をもたらすために、欧州特許制度創設加盟国は、様々な形態や段階で、新設した欧州特許庁をサポートする必要があった。欧州特許庁の設立と創業資金のために、加盟国は財政支援を行った。
1973年のミュンヘン外交会議では、欧州特許条約とともに、集中化議定書が採択されている(詳しくは10章参照。)。この集中化議定書は、新しい欧州特許庁に対して十分な仕事量を与えるためのものであり、欧州特許制度加盟国は合意済みである。この集中化議定書に従い、欧州特許制度加盟国は、PCTの国際調査機関や国際予備審査機関としての権利を放棄し、後に欧州特許庁に統合するIIB(国際特許協会)にこの権利を委任した。ただし、欧州特許庁での使用言語、すなわち英語、フランス語、ドイツ語以外の母国語を有する国だけは、当初の数年間、PCTの国際調査機関等としての活動を引き続き行うことができた。
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