18章: EPO運用開始の一年目 – 人材の問題

欧州特許庁は、1977年11月1日に設立された(詳しくは16章を参照。)。欧州特許庁の運用開始の最初の一年間は、新規の職員が一連の課題をなんとか達成する必要があった。初期の一部の欧州特許庁職員は、欧州特許庁の開設準備に関する暫定委員会(詳しくは12章を参照。)の期間中に準備作業に携わっていたため、管理レベルである程度業務を理解していた。しかし、それ以外の職員にとって、欧州特許制度は全く初めての制度だった。

欧州特許庁という完全に新しい機関を設立して、ある程度短期間に多国籍の人材を有する特許付与機関としての機能をもたらすためには、全職員に柔軟性と創造性が要求された。各手続き、各分野の業務は新しい環境で一から作り上げる必要があった。そして、これもまた締約国からの諸問題において、財政的観点からだけでなく、人材の確保についても十分な支援が必要だった。

立地国であるドイツとオランダ、及びその他の欧州特許制度加盟国からの財政支援が財政の基礎となった。欧州特許庁の運用当初の8か月における次の課題は、欧州特許庁の組織を規定して業務を回し、経営上の観点から欧州特許庁の所在地を3つ(ミュンヘン、ハーグ、ベルリン)に集約することであった。

欧州特許庁における人材問題が、欧州特許庁の将来にわたる円滑な機能と、その結果として欧州特許庁が特許出願人に受け入れられるために重要であった。欧州特許庁は、まず初めに、先行技術調査業務の職員を必要とした。これを解決するために、欧州特許庁ハーグ支部としてIIB(国際特許協会)を1978年1月1日に統合したものの、IIB職員は、将来も存続する各国特許庁の先行技術調査ですでに相応の業務量を抱えていた。そして、欧州特許出願の受付は1978年6月に開始され、それ以降は、欧州特許庁の業務量が増大する。欧州特許庁ハーグ支部のみでは、従前の業務量に加え、新しい欧州特許手続による追加の業務量をこなすことが難しかった。そこで、これらすべての業務をカバーでき、欧州特許出願受付開始に伴う追加の業務量を処理できる緊急措置が必要だった。そのため、1978年6月に欧州特許庁ベルリン支部を設立し、先行技術調査業務をサポートする追加の職員が配置された。しかし、両支部が同等のレベルで業務できるように、ツールと手引書を準備する必要があった。そして、適切に先行技術調査を行うためにトレーニングを受けた職員が必要だった。

同様に、欧州特許庁ミュンヘン支部では、経験を有し、特に審査手続のトレーニングを受けた職員確保が急務だった。このミュンヘン支部では、必要な審査手続を遂行できる職員を確保することがさらに困難だった。形式的な観点から、まず初めに、新しい欧州特許制度のための詳細な審査基準を策定し、その後、策定された審査基準に従って正確に審査できるように職員にトレーニングを行う必要があった。審査経験を十分積んだ各国特許庁の職員以外はほとんど採用できなかった。そのため、最初の数年間、そのような職員を確保する唯一の方法は、各国特許庁内での採用だった。これはもちろん各国特許庁に容認される必要があり、また将来の審査職員の採用の前提条件は、欧州特許庁の3か国語の公用語で勤務できることだったため、新採用の審査官のためのトレーニングコースと資料が作成される必要があった。

欧州特許庁における人材問題のため、発足当初の欧州特許庁は、国際特許分類 (IPC)の特定の分野でのみ 審査可能であると公開しなければならなかった。出願および公開手続に関し、実体審査が欧州特許庁で1979年に開始され、一年目は全技術分野の51%が実体審査可能だった。欧州特許庁設立の準備期間中には、実体審査可能な技術分野は、開始5年間で段階的に増加して約20%になると予想された。予想に反し、1979年にすでに51%の技術分野で実体審査を開始したことは職員の熱意と意欲が示されているが、他方で、特許付与手続の全段階において一刻も早い業務遂行を目標にした高い管理能力も示された。

欧州特許庁の運用初期から 、品質と利便性が重視された。これは、新制度の下でユーザー側と信頼を深めるためと、また新しく確立された特許付与手続に対するユーザーの理解を高めるためである。職員間のこの基本的な取組が、おそらく、欧州特許庁の初期運用にとって重要な要因のひとつであり、想定よりも早くその効果が表れた。

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