27章: INPADOCへの道 – 第2次世界大戦後の経済状況
1991年にINPADOC(ウィーンにある国際特許情報センター)が欧州特許庁に統合されたことで、特許情報サービスの発展における重要なステップであるユーザーコミュニティも生まれた。両機関の相乗効果は、特許情報分野における一連の流行を決めるサービスの基礎を提供した。
統合過程の詳細について述べる前に、1950年代の国際特許情報センターの設立から最終的にINPADOCが設立されるまでの歴史について、この期間の政治的、経済的状況における視点から以下に特記する。
第2次世界大戦後の1950年代、特に1960年代には、世界は桁外れの経済成長を経験した。この20年間はドイツでは´Wirtschaftswunder´ (経済の奇跡)の時期とも言われる。´Wirtschaftswunder´ という言葉は、主にドイツ語圏の国々(ドイツとオーストリア)で使用されるために作られたが、好景気は欧州規模であり、ある程度は世界的な現象であった。戦争による欧州(同様にアジア)の荒廃により、建物とインフラの再建が早急に必要であり、工業製品だけでなく消費者製品に対する需要も増加し、また、産業および知的財産の分野においても急速な発展となった。(おそらく、米国産業と比較した欧州産業の一種の巻き返しの効果もあるのだが。)
産業財産権が増え続けた結果、共通の規則、基準、特許法と実務の調和、そして特許発行機関同士の密接な協力が必要であるとの認識が着実に増加した。ユーザー同様に各国特許庁は、異なる国内分類や、標準化されていない識別番号を持つ特許出願が急増したことに直面し、それにより新しい発明の把握がさらに困難になった。特許出願を審査するリソースは制限された。利用可能なツールはむしろ基本的なものであったが、異なる特許庁間での新規性の調査などにおいて、網羅性があることが証明された。その結果として、各国特許庁の政治レベルおよび実務レベルにおいても、産業財産権の全付与手続において業務の重複を避けて効率を高めることを目標として、国際レベルで一連の対策と提案が掲げられた。とりわけ、特許法の調和は、当事者が将来に向けた欧州特許制度の議論においての主要テーマであった。
産業財産権の分野において、第2次世界大戦後の数十年は様々なイニシアチブのための準備期間だった。1947年にIIB(国際特許協会)を設立することにより、調査と審査の実務を合理化する最初の措置が講じられた。最終的に、IIBは、1970年代に新設された欧州特許庁に経験や知識をもたらした中心となる機関として見なされるが、後に欧州特許庁の専門的な調査や審査を行う上で重要な柱となった。IIBの欧州特許庁への統合は、特許審査および付与機関としての責務を果たすべき欧州特許庁の初期の数年間の存在を明確にし、その初期段階における全ての機能を欧州特許庁にもたらす重要な要因であった。そして、IIBは1960年代の大抵の産業財産権関連のイニシアチブや発展において、少なくとも補助的役割、助言を与える役割、そして指導的な役割を果たしたことをも忘れてはならない。
1970年代初期までに重要なイニシアチブがあったが、大抵はBIRPI (知的所有権保護合同国際事務局:もともとは1883年の工業所有権の保護に関するパリ条約の結論に応じて1883年に活動を開始した国際事務局から派生した)が開始したか、若しくは関連があったものである。また欧州特許庁と関連のある政治的イニシアチブの状況もあった。数年後、国際特許分類の準備作業が完了し、様々な段階で、欧州特許制度と後の欧州特許条約の導入準備が整った。特許協力条約(1970年6月19日ワシントンにて署名、1978年発効)に向けた準備作業も完了し、特別な手続で発明の世界的な保護を取得する新しい出願方法を提供した。欧州経済共同体(EEC)の6加盟国が“欧州特許”のために開発した計画と比較すると、PCTの計画は、特に特許付与後の期間に規定が含まれていない点などがあり、野心的ではなかった。PCTの提案が限定的であるのはこの点だけではないが、―将来の発展により証明されたように― それでもその成功を維持している。
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