29章: INPADOCへの道 – 1960年代のプロジェクト
1958年における特許資料センターに関する文書化の最初の試みは、ロケットに例えるならば点火、あるいは製品やサービスの範囲を規定する課題を担った機関の核であったと解釈できる。後に、INPADOCにより広範囲に製品やサービスを提供することとなった。最初の試みとは、国際事務局(BIRPI)の傘下に直接、優先権主張に基づいた特許や実用新案のための国際資料センターを設立するというものだった。(原文フランス語:“Projet d’Arrangement international concernant la création d’un Centre de documentation des brevets sous priorité“)。この資料センター設立に関する協定案において、それまでは特許発行機関は日付、国名、文献番号、供託者の氏名を含む出願人の優先権主張を記録および公開する義務があったが、その提案は、国際事務局が資料センターを設立し、全参加国の優先権請求を収集して処理するべきだ、というものだった。その資料センターは設立後、優先権請求に基づいて特許や実用新案のリストを提供する必要があった。“パテントファミリー”という表現はこの時まだ使用されていなかったが、資料センターが提供していたサービスは事実上パテントファミリーの情報だった。
各参加国も資料センター設立について検討したが、大半は、国際事務局の傘下に設立する考えに同意しなかった。というのも、設立資金については参加国の寄付金を当てにするだろうという財政面での視点から、設立に消極的だったからである。最終的には、期待されるような文書化や関連サービスは他の手段でも容易に提供できるという結論に達し、将来的にそのような情報サービスを提供するための協議を行ったが、その後の数年間において目に見える成果をもたらすことはなかった。
日に日に業務量が増大するなか、新設された‘International Committee of Novelty Examining Patent Offices(新規性を審査する特許庁の国際委員会)’ の最初の会議が1964年10月にジュネーブで開催された。このとき、リスボン会議での議論と同様に、異なる国家間における“同一発明における特許出願と特許のインデックス化”について提案された。創立総会の委員会はパリ同盟(1964年末の加盟国は64か国)の19加盟国の特許庁、非加盟国の4名の代表者、国際的政府間組織として国際特許協会(IIB)、非政府組織の4名から構成された。参加国の多くは既にこの時、調査のために世界中の特許文献のコレクションを保有していたので、新しい情報サービスの必要性を認識していた。委員会は関係者との協議に基づいて収集した情報を利用し、このトピックに関する調査を開始することを決定していた。
1965年3月の“新規性を審査する特許庁の国際委員会”と諮問グループ(1964年10月の会議で設立された作業部会)の会議で、“同一発明に関する特許と公開特許出願のインデックス化”について、深く議論された。その際、世界の様々な国で同一の発明に関する特許出願と、付与された特許を特定するという主な目的のほかに、発明の性質に応じた分類サービスが、他の関連する有用なデータとともに調査目的で分析されることについても言及された。このような分類サービスは特許庁だけでなく、発明者や他の特許関連ユーザーにとってもその有用性が高まると思われた。この調査開始の決定により、調査の範囲は分類のトピックとともに拡大され、関係国においてまずその分類サービスを受けることができるユーザーを特定した。BIRPIは諮問グループに対して、そのようなサービスにより期待される要素と、推定費用に関する報告書を作成した。諮問グループは、BIRPIが実施するこのトピックに関する追加の調査を支援した。また、それぞれの政府に費用見積りを基本情報として、政府や民間産業がその情報サービスにどの程度の関心を持っているのかの回答を求めた。各国の回答に応じて、次のステップを検討する必要があった。
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