35章: INPADOC – オーストリアとWIPOの協定
この決定でプロジェクトは加速し、オーストリアとWIPO間の協定案に向けた交渉は、その後も数ヶ月間継続された。1972年1月から3月にかけて、オーストリア政府及びWIPO事務局長の代表者は、IIB、Derwent及び日本を含む7ヵ国の代表者と会合を持ち、オーストリア政府がウィーンに設立予定の特許文献サービスのための機関と協力する可能性について協議した。ここで初めて、特許庁に代わって機械可読の日本の特許データを提供する可能性のある機関として、日本特許庁が後援する半政府機関である日本特許情報センター(Japioの前身Japatic)が登場する。
上記の国々及び機関との協議では、一部の例外を除いて最低限のPCT 加盟国及び複数の重要な追加国の10件の書誌データが、遅くとも1年以内には、機械可読な形式でウィーンの機関に提供されるだろうという結論に達した。さらに、世界各国のデータを追加する計画が立案されており、数年以内に、20ヵ国近くのデータがパテントファミリーサービスと分類サービスに提供されると予測された。
1972年4月初旬に、WIPOとオーストリア政府との間の合意文書が起草された。同じ頃、ウィーンの機関が提供する予定の3つのサービス、すなわち、パテントファミリーサービス、分類サービス、特許文献の複製サービスの開始に向けたスケジュールも作成された。この3つのサービスは、1972年中には少なくとも常任委員会の8カ国とIIBとで締結され、1973年末までに最大11カ国のデータを用いて運用が開始されると見込まれていた。WIPOは契約締結に向けた新しい機関の活動を支援した。 これらの協定の条件は、明らかに相互のデータ交換に向けられたものであった。機関は、文献作成国から可能な限り機械可読データを受領し、その交換として、その処理済みデータ(10件の書誌データ)をそれらの国に返還するが、他国の追加データを濃縮したものは機関自身が手動で取り込むことになる。
1972年5月2日、ウィーンで“国際特許文献センターの設立に関するオーストリア共和国と世界知的所有権機関(WIPO)との間の協定”が調印された。この協定に基づき、オーストリア共和国は、定められた3つのサービス(パテントファミリー、分類、複製)を提供するため、INPADOCを設立することに同意した。この協定では、サービスがカバーすべき10件の書誌データと、カバーする可能性のある3件の追加データカテゴリが規定された。
この協定によれば、WIPOの役割は、特許文献に記載される書誌データをできる限り世界的に統一し、そのデータを機械可読な形で提供することだった。これはINPADOCの作業を容易にするための重要な要素であった。さらにWIPOには、INPADOCと国内及び国際機関とのコンタクトを支援し、また、INPADOCが提供するサービス、特にPCTに基づく調査・審査機関のサービスを促進する責務があった。
この協定には、WIPOの財務上の義務は含まれておらず、WIPOがINPADOCの要請に基づいて活動した費用は払い戻されるべきであり、INPADOCの純利益の10%がWIPOに割り当てられた。INPADOCの監査委員会は、WIPOの代表者のために2席を確保した。WIPO は、INPADOCに関する詳細な情報に無制限にアクセスすることが認められていた。また、協定にはサービスの適時提供に関する条件も含まれていた。すなわち、1974年1月1日までにINPADOCが設立されない場合、又はその後合意されたサービスが提供されなくなる場合、WIPOは協定を破棄することができた。しかし実際には、そのような状況が現実化することはなかった。
WIPOとの協定署名からわずか3週間後の1972年5月24日、オーストリアは“国際特許文献センター設立・活用の会社”【INPADOC】を設立した。INPADOCはオーストリア共和国に完全に所有され、全額融資が行われた。6月29日の第1回理事会では、理事会の構成員はオーストリア政府によって任命され、オーストリア通商省が代表を務めた。WIPOからは、事務局長のBodenhausen教授と当時の事務局次長であったArpad Bogsch博士が出席した。
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