36章: INPADOCの実現

INPADOCの法的形態は、有限責任会社だった。資本金は6,000万オーストリア・シリング(約4~500万米ドル)で、オーストリア政府が全額出資した。これまで、INPADOCを政府機関として設立することについても検討されてきたが、WIPOがINPADOCの監査委員会に2席を確保するという条件は、オーストリアの法律では有限責任会社以外の企業形態では認められていなかった。

その協定はオーストリア議会によって批准を得て初めて発効することができた。しかし、協定の要件をタイミング良く満たすためには、1974年1月の時点でINPADOCが存在しない場合に備え、この協定を破棄する機会を得るために、無駄にする時間はなかった。INPADOC が正式に設立された後は、財源の配分、スタッフの採用、会社の敷地場所の確保、コンピュータおよびプログラミングの準備、各国特許機関とのデータ提供契約の締結が必要だった。

1972年に、INPADOCが初期活動に自由に使える費用として、オーストリア政府は500万オーストリア・シリングを割り当てた。1973年の春にウィーンの第4地区にあるINPADOCの長期拠点に移転する前、新たに設立された会社は、1972年にオーストリア特許庁のすぐ近くの第1地区に予備拠点を有しており、そこにはこれまでの特許文書が格納されていた。後に提供されるコンピュータ管理サービスについては、1972年9月にシーメンス社との間でコンピュータの使用およびプログラミング業務に関する契約を締結している。そして、1972年後半にINPADOCの経営陣は、WIPOの支援を受けて、好ましくは機械可読な形式で定期的にデータ配信をするための契約を各国特許庁と締結した。
WIPOとオーストリア間の協定は、1973年3月にオーストリア議会で批准され、協定の第8条で想定されていたように、締約国間の覚書交換の後、1973年6月22日に発効された。

1973年、INPADOCは常任委員会に対し、1972年秋から1973年夏にかけて、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、日本、ソ連の特許庁及びIIBとの間で、機械可読形式の特許書誌データ交換に関する協力協定を、成功裏に締結されたことを報告した。INPADOCがこの点に関して最初に合意したのは、1972年11月17日に日本特許庁との間で調印された協定である。その後1972年11月30日に、ソ連閣僚会議の発明・発見国家委員会との間でも協定が結ばれた。特に、この第二の協定は、オーストリアにおけるINPADOC 設立の政治的な別の側面が明らかになるので、言及する価値がある。オーストリアは冷戦期に、政治的中立国として東西間の仲介役を果たすこともあったが、これはINPADOC の活動にも反映されている。実際、INPADOCは鉄のカーテンの東側の国々と良好な関係を築いて維持することができ、また、特許文献の分野においても、西から東へ、またその逆も含めて一貫した情報の流れをサポートすることができた。

WIPOとの契約では、計画されている特許文書化サービスの必要性も急務とされていたため、INPADOCは当初から、今後予想される大量の文書に対応できるコンピュータシステムの構築に注力していた。INPADOCは1974年初頭までに、最初のデータ収集プロジェクトを完成させ、世界26カ国の累積書誌データの最初のバッチを提供する立場にあった。サービスは、購読サービス(パテントファミリーサービスと分類サービス)についてはマイクロフィッシュ(COM – コンピュータ出力マイクロフィルム)の形式で一般に提供され、また個別のリクエストについては 紙、テレックスまたは電話で提供された。1973年末には、INPADOCは相互にデータ提供することで合意した、官庁への累積データテープ(ACD)の配信を開始する技術的な準備も整えた。INPADOCが初年度に使用したコンピュータのワーキングメモリは64kだったが、1973年末には128kを有するマシンに交換された。コンピュータ技術の使用が始まった初期の頃から技術的な発展は早く、1年でワーキングメモリを100%複製することができた。

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