42章: INPADOCとJapatic – 欧州向けサービス
1982年には、Japaticは着実に日本出願の3つの追加データ(出願人、発明者、発明の名称)を、定期的に英語で提供することができるようになった(特に欧米向け)。 Japaticは、1983年3月以降に公開されたすべての公開特許出願の英語による上記3つのデータを商業製品としてINPADOCに提供することに合意した。 さらに、1976年以降のバックファイルデータの翻訳も完成しINPADOCに提供された。これにより、日本国外のユーザーが初めて、翻訳のおかげでこれまでよりも言語の壁を越えて、より広範で包括的な日本の特許情報にアクセスできるようになった。
欧米を中心にさらに多くの英語情報を提供する努力を続ける中、Japaticは並行して日本語情報へのアクセスの可能性をさらに高めるべく、次の段階を目指した。Japaticでは、特許出願の英語抄録の作成を開始したが、これはもともと日本語で利用可能な印刷形式のものだった。そして、INPADOCは欧州におけるJapaticの代表的なエージェントとしての役割の中で、欧州のユーザーにこれらの抄録を提供する権利を得た。 これは、欧州のユーザーが日本の情報にアクセスするのを容易にする、別の重要なステップだった。後年、Japaticはこれらのデータを商用ホスト経由で、オンラインで提供したが、同時にINPADOCのファミリーデータベースに日本の抄録のいわゆるアクセッション番号を含めることも許可した。 これにより、そこから英語抄録への迅速かつ目的志向のアクセスが可能になった。日本の情報へのアクセスを向上させ、言語の壁を低くするための次のステップが始まった。
1980年代前半、JapaticはPATOLISの新バージョン、いわゆるPATOLIS-2の発売にも成功し、日本市場向けのオンラインサービスの機能と範囲を向上させた。欧州での日本語データへのアクセスを改善する可能性については、1984年にIPATOLISオンラインサービスに直接アクセスできる漢字端末を、INPADOCに設置することが両機関の間で合意された。 1984年9月、ウィーンで開催されたINPADOCのユーザーミーティングの際、INPADOCとJapaticのスタッフがウィーンで共に作業した結果、ほとんど寝る暇もなく二晩かけてテストを続けたのだが、ウィーンの西洋型コンピュータ端末から、日本の日本語PATOLISデータベースへのアクセスに成功した。 欧州の西洋型コンピューターインフラから日本語の特許データベースにアクセスしたのは世界で初めてのことだった。 これをきっかけに、両機関の協力により、欧州のユーザーが欧州の標準的なハードウェアとソフトウェアを使って、この日本語の特許データベースPATOLISに直接アクセスできる特別なサービスが、20年近くにわたって提供された。このテストが成功し、INPADOCがJapaticのPATOLISデータベースにアクセスしてこの種のサービスを代表して推進することを承認することで両機関が合意した後、INPADOCは欧州の顧客が使用できるように漢字端末エミュレーターと呼ばれるものをさらに開発した。このソフトが機能するようになったのは1986年、ちょうど日本での組織がJapaticからJapioに変わった翌年のことである。 組織変更の影響を受けることなく、両組織の素晴らしい協力関係は途切れることなく続いた。
当時、PATOLISにアクセスし、PATOLISから流れてくるデータを自動で英訳するという特殊なソフトウェアは、特許情報の世界では画期的な発展だった。このソフトウェアは、書誌情報の標準化された部分とリーガルステータス情報全体の自動英訳を行った。 PATOLISデータベースに直接アクセスして、日本の特許・実用新案公報の最新情報を、関連するリーガルステータス情報も含めて即座に得ることができるため、その後の20年間、主に欧州の多くの企業や個人ユーザーに利用された。10年以上の間、日本の公報に関するより良い最新の情報を提供するために、欧米の言語で書かれた、あるいは欧米のインフラに基づいたシステムやツールは他にはなかった。
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