55章: 勢いを増す1980年代の三国間協力(1)

EPOにおける特許出願数は、設立6年目の1983年にはすでに年間総数3万件を超えていた。1960年代後半のEPO設立の準備段階において、1970年代の特許出願の発展の将来性を分析した結果では、EPOの年間出願件は最大でも3万件は超えないと推定されていた。

1983年、三極特許庁における出願件数の急増を受け、すでに第1回三極会合が開催されていたのだが、1984年には特にEPOでの状況はさらに悪化した。欧州特許の出願件数が予想以上に増加したため(1983年には約3万600件だったのに対し、1984年には3万6千件以上)、特許付与手続き、特に先行技術調査に長い遅れが生じた。通常、出願は調査報告書と一緒に公開されることになっていたが、この年EPOでは、2件に1件程度の出願しか公開されなかった。そして、中期的に出願公開の遅れがさらに増加することが予測された。

1985年春に初代EPO長官ヨハネス·ボブ·ファン·ベンテム氏が退任した後、1985年5月1日に後任のポール·ブレンドリ氏がEPO長官に就任した。業務量の急増と特許付与手続きに関する不可避の問題に直面し、効率化と業務量削減の必要性と緊急性がますます明らかになった。これを了解の上で、三極特許庁は、特許付与手続きの効率化を目的として、相互協力のテーマを特定し、推進の機会をさらに重視するようになった。

特許実務と特許法の調和は、欧州特許制度がユーザーコミュニティーに受け入れられるために不可欠であった。そしてこの制度の成功は、加盟国間の継続的な調和と適応に大きく依存するものであった。

欧州のみならず三極レベル、ひいては世界のレベルにおいても、効率性を高め、協力を深めるきっかけとして、三極特許庁が特定したテーマの中でも特許実務における基準と規則の調和に関する議論はますます重要なテーマとなっていた。1984年の第2回会合では、「特許実務の調和」に関する12番目の協力プロジェクトが三極特許庁の作業プログラムに追加された。その後、これらの議論の成果やこのテーマに関する三極特許庁の専門知識の向上は、特に発明の単一性に関して、PCTガイドラインにもある程度反映されるようになった。また、これらの議論で培われた専門知識は、2000年に締結され2005年に発効した特許法条約で定義された一連の強固な基盤構築にも寄与している。

最初の2年間は、初期の11のプロジェクトに関する技術的な協力が続けられ、年次会合で承認される成果を定期的に得ることができた。1984年の第2回三極会合では、プロジェクト11を除くすべての初期プロジェクトについて継続することが合意された。任務を遂行し、満足のいく結果を出した最初のプロジェクトがプロジェクト11であった。このプロジェクトは、特許の役割と経済的価値に関するデータの交換によって成功を収め、三極特許庁の個々の領域におけるこれらの経済的側面の全体像を示す結果となった。

1985年10月中旬に東京で開催された第3回三極会合では、この協力の目的達成に向けて大きな進展があった。最初の2年間に開始された12のプロジェクトのうち、そのほとんどが大きな進展を示しており、中にはすでに期待された結果を出し、終了するものもあった。

自動化の分野では、プロジェクト1「特許出願処理」が、機械での読み取りが可能な形式での特許出願の可能性に取り組んでいた(この時点では、フロッピーディスクでのデータ提供、OCR文字コード化形式、将来の可能性として直接的なデジタルデータの送信も検討されていた)。コンピュータ化とデジタル化の急速な進展に伴い、このテーマは効率性の向上と将来の作業負荷の管理において最も重要な開発のひとつであると認識されるようになった。紙で提出される特許出願は、審査の過程でデジタル化し、その後、公開情報として使用する必要があった。そのため三極特許庁は、主に機械での読み取りが可能な出願のためのガイドラインや、表紙や出願書類に記載される書誌情報の標準化に専念した。EPOでは、機械可読形式の出願を可能とするシステムとして、1985年7月1日にDATIMTEXシステムを導入し、同年後半にこの形式での最初の出願を受理した。

プロジェクト2「特許バックファイルの変換」は、デジタル化、効率化、作業量管理に関する2つ目の主要なものだった。このプロジェクトは、1920年から1987年までのPCT最小限資料に含まれる特許文献のデジタル化と保存を目的としたものだった。DATIMTEXシステムは文字コードに基づいているが、デジタル化されたバックファイルデータとテキストと画像は、符号化画像の形式で保存する必要があった。この点では、日本国特許庁はパイオニア的な役割を果たした。1985年当時、EPOやUSPTOでは、バックファイルデータの変換はまだ始まったばかりだったが、日本国特許庁ではすでに日本の特許明細書の変換を完了していた。

EPOでは、バックファイルデータの変換が完了した後、光ディスクからレーザー印刷によりEPOの特許文献を複製するシステムを開発することが計画されていた。このプロジェクトは、個々の特許文献の複製を目的とし、さらなる試験的プロジェクトへの道を開くものだった。その目的は、特許文献の複製を提供する際の労働集約的な手続きから脱却することであった。

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