1973年のミュンヘン外交会議に先立ち、過去数年間にわたり、欧州の政府間会議の作業部会にて、欧州特許制度に関する一連の草案が準備されてきた(詳細は5章、6章などを参照。)。これらの一連の草案は、ミュンヘン外交会議における議論のたたき台としての役割を果たした。会議中に草案修正のための様々な提案が提出され、ミュンヘン外交会議中の議論の結果として草案の一部が変更された。実際には、本質は変わらず、より一層の明確化と精密さに向けての変更であった。草案の主な変更点等は以下の通り。

・ 欧州特許庁の組織は、当初は3つの主要部門が想定されていたが、最終的には、調査部門と法的部門の2つを有することになった。調査部門の設立はIIB(国際特許協会)のEPOへの統合をスムーズに行う 役目を果たし、法的部門の設立はEPOのこの後の国際活動に向けた準備となった。
・スカンジナビア代表団は、特許付与手続における発明者の立場を強化することを提案し、この案が最終的に採用された。
・ 微生物に関する出願の扱い方は、会議で長期にわたり賛否の分かれる議論となった。最終的に、このミュンヘン外交会議での決定は数年間だけ続き、1979年に、欧州特許庁を管理する管理理事会の決定に より修正された。
・ギリシャ、ポルトガル、スペイン、トルコ、ユーゴスラビア等の数か国は、特許権存続期間の延長(10年間の存続期間から5年延長)を強く主張し、欧州特許条約の締約国は医薬品と食品の保護についての要求が許可された。さらに、締約国は、この特許権存続期間延長の対象製品リストに化学製品を含めることについてもうまく要求できた。
・最後に、オーストリアとスカンジナビア代表団からの提案により、中央集権化の議定書は、議論当初の集権化構想に従い、欧州のより広い範囲の利益の観点からいくらかの制限を受けた。

文書の修正が合意されたのち、会議に出席した全ての国が最終決議に署名した。初期段階では、欧州特許条約(EPC)自体に14か国がすぐに署名した。条約第165条により、条約の署名期限は1974年4月5日までと規定され、さらに2か国が署名した。最終的には、1974年4月5日までに合計で16か国が署名した。

この結果により、次の段階、すなわち、各国の国会による批准と、最終的な欧州特許機構(European Patent Organization)の設立に向けた道が切り開かれた。条約第169条の規定によると、欧州特許条約(EPC)の発効条件は、1970年に提出された特許出願の合計件数が少なくとも18万件以上に達する6か国による批准であった。この発効条件は、ルクセンブルクによる批准によって1977年7月7日に到達した。その3カ月後である1977年10月7日に欧州特許条約(EPC)が発効し、同日に欧州特許庁とそれを管理する管理理事会の設立となった。1977年の晩秋において、欧州特許条約 (EPC)の加盟国は、ベルギー、スイス、ドイツ、フランス、英国、ルクセンブルク、オランダであった。

1973年のミュンヘン外交会議の期間中、欧州特許庁の開設が1976年内に期待され、欧州特許条約(EPC)の発効はおそらく2、3年以内になるだろうと予測された。結局、16か国の署名の後、欧州特許機構(European Patent Organization)の実現に至るまでに4年近くも費やした。しかしそうは言っても、この取り組みの大きな成功は、共同体特許の保護に向けた継続的な、しかし長期の失敗した取り組みと比較しても全く無視できるものではなかった。